header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年3月13日(大斎節第2主日) 

エルサレムのために嘆くイエス

ルカによる福音書13章31-35
 

 きょうの福音は、ヘロデのイエス殺害の噂とイエスの答えに続いて、エルサレムへのイエスが嘆かれる場面が語られています。

 これまで続けられてきたイエスの病人を癒すという活動は、エルサレムへの旅路として表現されていることです。しかもそのエルサレムへの病人を癒すという旅路とは、預言者としての死を意味しています。そして、その死は「エルサレム以外のところではありえない」という表現によって、神の計画に基づくものであることを示しています。しかし、ルカによる福音書において、エルサレムでの死は、そこでの復活―昇天の一段階に過ぎないのです。

 イエスのこの言葉には、死というものが前面に現われていますが、聞きなれない言葉が述べられます。それは「三日目にすべてが終えるとか、「次の日も自分の道を進」むという言い方は「三日目の完成」「次の日」で表された三日目に更に道を進む、ということでありますし、それは復活、昇天を暗示しています。

 他の共観福音書のマルコ、マタイと違って、ルカにおいては復活も旅路であります。そして昇天も天への道を行く旅という表現で示されています。

 しかし、それは悪魔の追い出しや病人の癒しが昇天によって完成するということは、どういう関連があるのでしょうか。ここで、初代教会、原始教会の復活信仰が前提になります。その復活信仰というのは、イエスの復活・昇天は死への勝利であり、死を支配する者への勝利であり、そして、人を死に追いやる者への勝利として表されたのです。死を支配するもの,人を死においやる者とは悪霊であり、ルカにとっては病魔であります。従って、イエスが三日目に完成することは、復活・昇天という行為によって、人に救いがもたらされる、ということになります。

 ヘロデは、今イエスを殺そうとしても、イエスは神の計画によって預言者としてエルサレムで死ぬことになっているのです。

 それまでは、今日も明日もこの地上で病をいやす活動を続ける。と高らかに宣言しています。この活動は、エルサレムで死に復活・昇天することによって完成されるのです。イエスの行為によって、人には死からの救いがもたらされるのです。

 イエスはエルサレムでの、「預言者としての死」を預言したのち、ここでの彼の死が旧約の預言者たち、神から遣わされた者たちへの彼の同胞による迫害と同じ意味を持っています。彼らとイエスの迫害と殺害の結果は神の裁きであるということを予告しています。このイエスの行為は、ユダヤの同胞たちを神への改心に心を向けさせようと努めた最後の預言であります。だから彼を拒否することは、最期的には裁きを招く、そして神の裁きの具体的な表れは、迫害者の神殿が神から見捨てられることであります。紀元70年のユダヤ戦争において神殿が破壊されました。それはイエスにとってユダヤ民族宗教の最後を意味しています。「見よ、お前たちの家は見捨てられる」は多分、エレミヤ12:7、22:5の表現で、この裁きが神の救いの計画の一環として、予定されたことの実現である、といえるでしょう。エルサレムは「預言者たちを殺すもの」「自分のもとに遣わされた者たちに石を投げつけて殺すもの」です。イエスは旧約の預言者たちと同じように、迫害を受け殺されます。それによってエルサレムは神からの裁きを受けることが 34-35節に述べられている。

 イエスは言います。神は「あなたの子たちを集めることを何回も望んだ」。しかし、「あなたたちは望まなかった」。「何回も」という嘆きが示すように、神は旧約の時代に預言者たちを何度も遣わし、神のもとへと立ち帰ることを求めましたが、人々は神の思いを受け止めず、逆らい続けました。そのイエスの言葉に聞くことをせず、回心を拒むことは「あなたたちの家」が滅びるという決定的な裁きを招きます。「あなたたちの家は見棄てられる」とは、神殿が神によって見棄てられ、ユダヤの宗教が終わることを示しています。 35節の「主の名によって来られる方に、祝福があるように」は、詩編118 26節の引用です。

 「お前たちは「主の名によってという」時が来るまで」はこの詩118:26の句「祝福荒れ、主の名によって来る人に」という句が人々よってエルサレム入城の際にイエスに対して呼ばれるのです。

 神はかつて多くの預言者を遣わし、神に背いた人々を自分のもとに集めようと繰り返し試みました。それはめん鳥が雛を羽の下に集めるように、民を守り、命を与えるためでした。しかし、ユダヤの民は神が遣わした人々を石で打ち殺し、今また、最後に神が遣わしたイエスを殺そうとしています。「見よ、あなたたちの家は見棄てられる」は、預言者たちを殺し、イエスを殺す人々に裁きが下されることを告げています。エルサレムへの道を進むイエスの姿に、神の思いを見ることのできない民はその頑なさの故に裁きを受けるのです。しかし、この裁きを経なければ、神の救いは実現しない。「エルサレムよ、エルサレムよ」と嘆くイエスの言葉に耳を傾け、神のもとへと立ち帰るチャンスが示されています。イエスは神の意思を行うために神から遣わされました。イエスが悪霊を追い出し、いやしを成し遂げるのは、苦しむ人のもとに神が来て救いを与えることを示すためです。そしてイエスは最も過酷な苦しみを背負うために、十字架の待つエルサレムへと進んで行きます。神の思いを拒絶し続けた人々が、十字架のイエスを神が支えていることを知り、彼らが神の思いに心を合わせて生きる者となるために、イエスはきょうもエルサレムを目指していきます。



このページトップ」へ戻る