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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年3月06日(大斎節第1主日) 

荒れ野の試み

ルカによる福音書4章1-13
 

 イエスが活動を始める前に、荒れ野で40日間の断食の日々を過ごされました。大斎節は古代では復活日に洗礼を受ける人の特別な準備期間でしたが、次第にすべての信者が復活日をふさわしく迎えるために最初の思いを想起し、主イエスの40日の歩みに倣い、自らの在り方を振り返り、回心に励む大切な40日間となりました。聖書の中で「40」という数は、苦しみや試練を表す象徴的な数字です。わたしたちは、紀元前13世紀、モーセを通して、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に入るまでの「40年間の荒れ野の旅」を思い出します。荒れ野は水や食べ物が欠乏している場所で、人が生きるのには厳しい環境です。しかし、神はイスラエルの民の荒れ野の旅の中で、神は岩から水を湧き出させ、天から「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて、民を養い導き続けました。そのような中にあって、民は、時には不安に陥り、神への信頼がいつも問われていました。

 きょうの福音では、イエスは一方では、霊に「導かれ」、他方では悪魔によって「試みられ」ました。そういう意味で「荒れ野」は霊の導きと悪魔の誘惑とが対決する場でもあります。霊と悪魔の対峙は私たちの日常生活にも見られることですが、そのような「荒れ野」にイエスがまず立ってくださいます。そして、わたしたちに道を示されています。聖書の中で「悪」とは神から離れることであり、人間を神から引き離そうとする力の根源にあるものが、人格化されて「悪魔」と呼ばれるようになりました。イエスの答え、「人はパンだけで生きるものではない」は申命記83節の引用です。悪魔は、「もしあなたが神の子なら…」と語り出し、「神の子」であるための条件を示します。空腹を満たすために「石をパンに変える」人、それが悪魔の考える「神の子」であります。神の子なら、神から力を授かっているはずだから、その力を自分のために使って腹を満たすこともできるではないか、と悪魔は考えます。しかし、イエスは別の考えを持っています。神の言葉に従うイエスは、聖書の言葉を引用して、悪魔の誘惑を退け、神の子としての力を自分のために利用しようとはしませんでした。人を真に生かす命はパンからではなく、生ける神から来る、とイエスは考えます。空腹から脱却するために神の子としての力を使うなら、神の子とは呼べない者になるからです。8節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」は申命記613節の引用です。

 悪魔は最初の誘惑に失敗すると、自分の権威をちらつかせ、全世界の権能と栄光は「私にゆだねられているので、それを「あなたに」あげると申し出ます。その条件として「私の」前にひれ伏すことを要求します。イエスは再び聖書の言葉を用いて、悪魔の誘惑を退けます。神の子がひれ伏す相手は「神」であり、仕える相手も神「だけ」であるとはねのけました。これは、民が約束の地に住み、豊かな食べ物で満たされるようになっても、主を忘れ、周辺民族の他の神々に惹かれるようなことがあってはならない、という警告の中で語られる言葉です。

 12節の「あなたの神である主を試してはならない」は申命記616節の引用です。ここでは出エジプト記17章のマサ(メリバ)での出来事が思い起こされます。それは、イスラエルの民が荒れ野でのどが渇き、神とモーセに不平を言う場面でした。イエスが信頼してそこに立つ根拠はいつも聖書の言葉であります。48節の「書かれている」や12節の「言われている」は、いずれも聖書を引用するときに使う表現です。そこで悪魔も詩編91を持ち出し、ここから身を投げてみよ、神が助けてくれるにちがいない、と誘います。

 ここでも最初の誘惑と同じように、「もしあなたが神の子であるなら」と、言います。この条件文は悪魔の考える「神の子」を暗に示しています。悪魔にとって、神殿から身を投げられる者、それが「神の子」である、と考えるからです。

 しかし、それは神への信頼ではなく、むしろ、神を試すことであり、神への不信の表明だとイエスは考えました。神を試す、ということは、自分が造り上げた神の概念に合うかどうかを調べることにほかならないのです。イエスは「あなたはあなたの神、主を試みてはならない」という聖句を引用して、悪魔に答えています。並行記事のマタイ45節では「聖なる都」とあります。ルカが「聖なる都」という表現を「エルサレム」に変えたとすれば、ルカの神学に合わせるためであろう。と考えられます。

 ルカにとってエルサレムは受難と復活の場所であり、よみがえったイエスが弟子と出会う場所であります。救いの出来事にとって中心的な場所であるのです。

 マルコ、マタイでは、弟子たちが最初に出会う場所は、ガリラヤでありました。

 また、悪魔による三つの誘惑はその順序がマタイとルカでは異なっています。マタイが二番目とする誘惑をルカは最後においていますが、これもエルサレムの受難を強調するルカの神学に合わせるためかもしれません。もしそうであるなら、ルカは、悪魔による誘惑の物語によって、イエスの受難と復活(勝利)が予告されていると受け取っているのかも知れないのです。神の支配を告げるイエスの生涯には、さまざまな苦しみや試練がありますが、神への信頼を捨てることがありません。「時が来るまで」(413)の「時」は決定的な悪との対決の時、すなわちイエスの受難の時を意味しています。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(49)という悪魔の言葉は、イエスが生涯の最後に十字架の上で受けた誘惑、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(ルカ2335, 37)を思わせる言葉でもあります。

 そのすべての誘惑の中にあってもイエスは父である神への信頼と従順を貫き通すのです。きょうの福音での誘惑との戦いは、イエスの活動のはじめの一回の出来事というよりも、イエスのこれからの活動、十字架の死に至る活動全体の縮図なのだと考えることができるでしょう。

 わたしたちにもパンが必要ですし、健康や安全は大切です。経済力や力もある程度は必要でしょう。そういう意味で、これらすべてを悪の誘惑と決め付けることはできませんが、大きな問題は、自分のためだけにそれらを求めることで、それらを求めすぎるあまり、神との、隣人との親しい交わりを失ってしまうことなのです。わたしたちの人生も「荒れ野」だと言えるかもしれません。わたしたちはその中でいつも神とのつながりをどう生きるか、人とのつながりをどう生きるかということを問われています。これは決して大斎節だけのテーマではありません。しかし、大斎節はそのことを強く意識させてくれる悔い改めのチャンスなのです。神の子とは悪魔は神とイエスとの関係を断ち切ろうとしてイエスを試みますが、イエスは悪魔の誘惑をすべて聖書の言葉で退けます。神の言葉を口にすることによって、イエスは神への信頼を明らかにします。

 十字架上のイエスを嘲笑する人たちは、「もしあなたがメシアなら」自分を救ってみろ、とののしった(23:35)」のです。彼らの考える「メシア」は、十字架から降りることのできる者のことであるからです。しかしイエスは十字架を降りようとはしません。降りられないからではありません、イエスは降りないのです。降りないことによってイエスはメシアなのです。「私たちの罪のために」死ぬことこそ神の救いの計画であります。荒れ野に現れた悪魔は自分が考える「神の子メシア」像から一歩も抜け出せない人々の予型であると言われています。

 神の子とは、人が求める奇跡を行う者、神からの力を自分のために用いる者ではなくて、神の言葉に忠実に生きる者です。

 イエスは石をパンに変えることも、屋根から飛び降りることもできます。しかしそれは、神の指示があるときだけです。神の言葉を聞き、神の思いに従って生きる者が神の子、メシアなのです。

 わたしたちキリストの信仰者も神の言葉を聞き、主が歩まれた道を歩むことです。


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