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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年2月27日(大斎節前主日) 

イエスの姿が変わる

ルカによる福音書9章28-36
 

 「この話をしてから」とは、21-27節の受難予告を指しています。イエスは、このことを誰にも話さないように命じて、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、殺され、三日目に復活することになっている。イエスは、わたしについてきたい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」この受難予告から「およそ八日の後に」と日時を記しているのは、イエスの変容と受難予告との間の深い関係を示すためであります。イエスが限られた弟子を連れて山へ登るのは「祈るため」でありますが、これは受難というものが待ち受けているエルサレムへと旅立つ(51節)ための祈りかも知れません。

 この祈りの中で、イエスの「顔の様子が変わり」、その衣が白く輝いていきました。イエスの変容は外形の変化なのではなくて、神の子(35節)としての本質が現れたのです。従って、衣が白く輝いたのも、イエスの内面が衣を通して輝き出たということを意味しています。

  そして、イエスと共に現れたモーセとエリヤが「二人の人がイエスと語り合っていた」と「二人の人」と呼ばれています。この表現は復活(24:4)と昇天(使1:10)の場面でも使われる用語ですから、ルカは変容を復活・昇天と密接に結びつく出来事と捉えている、と考えてもよいでしょう。

  ルカは並行記事のマタイやマルコとは違い、モーセとエリヤの会話の内容を明らかにしています。栄光に包まれた彼らがイエスの最後について、すなわち死について語り合うのは奇妙な光景に思えますが、イエスの栄光は死と矛盾するような栄光ではありません。十字架に死ぬとき、最も輝きを放つのが栄光であります。

  モーセは神に選ばれたイスラエルの指導者であり、イスラエルをエジプトから導き出し、約束の土地に導いた人(使7:20以下)です。神がイスラエルと契約を結び、イスラエルに律法を与えたのも、モーセを通してであります(出24章、ヨハ1:17)。神から与えられた使命の大きさとその功績によって、モーセはイスラエルの歴史上で最も偉大な預言者とされる(申34:10)のです。 モーセは律法や神の言葉の権威を体現する人です。マルコ1226節では、神がモーセに語った言葉をよりどころにして、イエスは死者の復活があると述べます。

 また、エリヤはヨルダン川東岸の町ティシュベの人で、紀元前九世紀の前半に北王国イスラエルで活躍した預言者です。その働きについては、おもに旧約聖書の列王記上17章から列王記下2章に記されています。また、マラキ32324節やシラ481-12節によると、エリヤは終わりの時に神から再び遣わされる預言者であり、イスラエルの十二部族を再興する人物とされています。

 こうした旧約聖書の箇所に基づいて、エリヤはメシア的な人物、あるいはメシアに先立って現れ、救いの時の到来を告げる人物と考えられるようになり、「エリヤが来る」ことは、イエス生きた同時代のユダヤ人たちには特別な意味を持っていました(マコ9:11以下)。

 洗礼者ヨハネやイエスは、エリヤが再来したと人々から見なされ、この預言が洗礼者ヨハネによって成就したと考えられました。再来したエリヤとしての洗礼者ヨハネの死は、メシアであるイエスの受難の先駆けである、とされていました。

 だからしばしばユダヤ人の間では、エリヤは天上にいて、地上の人間を苦難から救ってくれる人物と考えられていました。こうしたユダヤ人の信仰は、十字架上でのイエスの叫びを、「この人はエリヤを呼んでいる」とエリヤに助けを求める叫びとして、誤解する人々もいたようです。

 モーセとエリヤが離れ去ろうとしたとき、ペトロは「三つの幕屋を造りましょう」と提案しました。彼は幕屋を造ることによって、栄光に輝く三人を地上に留めようとしたのです。ペトロは目に見える栄光にとらわれ、イエスのエルサレムでの出発に目を向けようとはしていません。彼は言うべきことを「分かっていない」人であったのです。

 このペトロの誤りを正すために、「これはわたしの子で、選ばれたもの、これに聞け」と神が雲の中から応えます。イエスは確かに「私の子」であるから、栄光に輝くのは当然です。しかし、同時に「選び出された者」として、神からの使命を帯びているのです。このことはイエスのエルサレムでの「出発」を裏を返せば十字架の死を通らずには、実現されないのです。弟子たちはここに留まって幕屋を造ろうとはせずに、イエスに聞き従い、その後をついて行くようにと教えています。

 イエスの受難は、弟子たちには二回目の受難の予告においても45節で「理解できないで、彼らは恐ろしくて尋ねられなかった。」と描写されています。

 イエスの変容はイエスの死と栄光の意味を教えます。十字架を通過するイエスの出発は、惨めな死で終わってしまう「最期」なのではなくて、父のもとへと帰る「出発」であります。エジプトでの奴隷状態からの解放を求めるイスラエルの叫びは、神に聞き入れられ、カナンの地を与えられましたが、イエスの祈りも神に聞き入れられたのです。栄光に輝くイエスの姿に神からの救いが約束されているのです。


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