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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年2月20日(顕現後第7主日) 

愛するということ

ルカによる福音書6章27-38
 

 きょうの福音は、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。イエスは徹底的な愛を要求しています。

 愛することは、さらに積極的な行動を生み出します。頬を打つ者にはもう一方の頬をも向けなさい、上着を奪い取る者には下着をも拒んではならない」、そして求める者にあなたは誰にも「与え」なさい、奪い取る者から「取り戻そうとはしない」のです。(29-30節)。愛とは「与えること」であります 。この並行箇所であるマタイでは、下着をとる者として、描かれています。

 ルカでは、上着を取るものですから、おいはぎにあったものを想定しているのではないか、と考えられています。

 ルカ627節と35節で、イエスは「敵を愛せ」と呼びかけています。聖書の「敵」は、神や神に属する者に反対し、対立する勢力を表します。いずれの箇所でも、「敵を愛せ」という言葉は、神の国の到来を告げるイエスの教えの一部として語られている言葉です。

 31節の「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」。これは「黄金律」と呼ばれる勧めです。人間関係を保持する根本的な態度と言えるでしょう。イエスの口からこれが語られるときには、もはや人間的な倫理で終わらないのです。神との関わりに基づいて勧めています。 愛してくれる者を愛するとか、善いことをしてくれる人に善いことをするとか、返済を期待して貸すということなら、「罪人たち」も同じことをしている、というのです。誰でもその程度のことはするのです。ここでの「罪人」は神を信じられない人、神から離れている人たちのことです。罪人でさえ、同じことをするのです。

 しかし、あなたがたにこう言います。「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(35-36)

 35節の「しかし」という言葉が、示しているように、神を信じる「あなたがた」の振る舞いに「罪人」以上の振る舞いが期待されています。イエスの言葉を聞いて行動を起こそうとしているあなたがたも、過去に「罪人」であったのです。今は「罪赦された罪人」です。あなたがたがイエスの十字架によって贖われ、神の憐れみに触れた人たちです。この神の愛を知ったはずのあなた方だからこそ神の子として、その愛をもって人に係っていきなさい、ということになるでしょう。これは、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」という福音の宣言とも重なるでしょう。この神を知ったことがキリスト者の原点になります。それは自分の力ではなく、神の力によって、そうすることができきるのです。信じるあなた方をこの神の高みへと進めてくださいます。

 ルカ6章35節では、「神は恩を知らない者にも、悪人にも、情け深い方だと述べて、敵への愛の業を呼びかけています。

 イエスは「新しい律法」を与えているのではなく、神の愛を受けた神の子としての新しい生き方はこうなのだと指し示しているのではないでしょうか。根本に神の国の福音がある、ということを今日のイエスの言葉を受け取るために忘れてはならないことです。

 36節は、 あなたがたの慈悲深さは、父の「慈悲深さ」から来る、と言われています。神から離れて、敵を愛そうとしても、それはできないのです。神へと近づき、その愛に触れるとき、敵を愛することが許され、その力が与えられるのです。

 ここでは、裁かず、罪に定めず、赦し、与えるのは神であるからすべて受動形で描かれています。神の近くにいる者は人を裁かずに、赦し、与えることができるのです。

 人を裁かずに赦せるかどうかは、自分と神との距離を示す物差しとなります。それができなければ、自分は神と離れているのです、これは神との関係の中で現われてくると語られています。

 あなたがたが量られる「量り」がテーマになっています。いっぱい与える人に、恵みを与える神は、量りの中味を「押し下げて」満たし、さらに「揺すって」すき間をなくし、そこに「溢れ出る」ほどに、入れるのです。「与える」者は、それほどの神の恵みの豊かさを「与えられる」のです。そのように約束されているのです。

 敵をも愛せる大きな恵みと愛の中に生かされる人間は、自分の熱意によって、そのような業は、行なわれるのではありません。神の愛によってできるようにしていただくのです。

 神は、神を信じない「敵」のために御子を送り、ご自分と和解させてくださった(ロマ5:10)。この神の愛に気づくなら、敵をも包む神の憐れみに生きることになります。敵を愛することは義務ではありません。むしろキリスト者は、敵をも愛せる大きな恵みと愛の中に生かされているのです。

 イエスは「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と教えています。キリスト者の行動の「良さ」は、神の「慈悲深さ」を映しだすものであるから良いのです。神がイエスを通して示した愛を見つめるとき、人は自分の意思でなそうとしてもできない生き方から、人は、み子の十字架の死と復活を信じる信仰による新しい生き方へと向かう者となるときはじめて良いものとなるのです。わたしたちも新しい生き方へと向かって歩んで行きましょう。


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