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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年2月13日(顕現後第6主日) 

平地での教え

ルカによる福音書6章17-26
 

 ルカの福音では、イエスの活動が始まってしばらくしてから、イエスは山の上で12人の弟子を使徒として選びました。その後、イエスは山から下りて平らなところに立つと、山で一緒に祈った弟子のほかに、さらに広い「弟子」の集団と「民」の群れが、ユダヤ全土とエルサレムから、またティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気を癒していただくためにやってきました。汚れた霊に悩まされていた人々も癒していただいていました。

 20-49節の長い説教は、マタイ福音書57章の説教と共通する部分が多くあります。マタイのほうが「山上の説教」と呼ばれるのと対比して、ルカ福音書のこの部分は、17節の「平らな所」という言葉から「平地の説教」とも呼ばれています。イエスは「彼の弟子たちの中へ」入り目を上げて、語り始めます。ここでの「弟子」には、山から下ったイエスのもとに集まった「弟子」や「民」が含まれています。ルカでの「民」は単なる群衆ではなく、神の言葉を受け入れる準備の整った人々を指すことがあります。ここでの「民」はそのような民であろう、と考えることができます。イエスは、これらの人々を前にして「あなたがたは幸い」と語り始めるのです。ルカの説教は、マタイの「山上の説教」とは違って、イエスは「あなたがた」に向けて語りかけており、親しみを込めた呼びかけとなっています。「幸い」なのは、「貧しく、今飢え、今泣き、憎まれて追い出され、ののしられて汚名を着せられている人々」であります。

 しかし、この「あなたがた」はいつまでも惨めな状態に置かれはしないのです。「神の国は、あなたがたのものである」。と言われます。神の国とは場所のことではなくて、神の支配のことであり、神の支配は既に始まっていると受け取ることができます。しかし21節では「満足させられるだろう」とか「笑うだろう」というように、未来形が使われています。あなたがたに心からの笑いをもたらす神の支配は、まだ完成されていません。だがしかし、すでに始まっており、その完成は確実であるといわれています。

 23節の「その日」は迫害を受けているその日を指しているのでしょう。迫害の真っただ中にあっても、すでに喜ぶことができるのです。なぜなら、神の支配がすでに始まっているからです。天における報いも確実だからであります。

 将来のその日を先取りするかのように、今、すでに喜ぶことができるのです。だからそこで命令形「喜びなさい」「踊りなさい」が使われています。

 ルカのきょうの箇所の最初の3つの幸いは、マタイの山上の説教の冒頭にある「八つの幸い」とよく似ています。ルカ620節の 貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。21a 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。21b 今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる。「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の支配(バシレイア)はあなたがたのもの」だからです。

 神は決してあなたがたを見捨ててはいない、苦難にあるときも、神は決して逃れられない試練をお与えにならないのです。

 神は王(バシレウス)としてあなたがたを救いに来てくださる、だから幸いなのです。「あなたがたは満たされる」「笑うようになる」も神がそのようにしてくださるということを意味しています。これこそがイエスの「福音」です。「貧しい人」は単に経済的な貧しさだけを表す言葉ではありません。この「貧しい人」は「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」など、さまざまな理由で小さくされている人すべてを含む言葉です。

 マタイの「山上の説教」には、「不幸」な人々への言葉はありません。この世の立場が逆転し、金を持っていて「今」満たされ、「今」笑っている者が空腹になり、泣く日がそこに来ようとしています。この逆転を強調するところにルカの関心があり、この福音の特色があるのです。イエスの前に座って、その呼びかけに耳を傾ける弟子や民の一人ひとりの心には、神の支配に信頼し貧しく生きる「あなたがた」と、富に憧れて快適な生活を捨てきれない「あなたがた」とが共存しています。富に頼ろうとする「あなたがた」を呼びかけから消すことによって、イエスは富に頼る生き方のはかなさを強調しようとしています。神の支配の前で、富とそれに基づく満足や笑いは、もろくも崩れ去るのです。

 24節の「十分に受け取っている」は、商業用語であり、借金の返済を十分に受けてしまい、もはや負債者に何の要求も出来ないことを表すそうです。

 金持ちは富を貧しい者に分けないで、自らの慰めに利用するから、神からの報いを期待できないのです。「富んでいる者」、「今満腹している者」、「今笑っている者」、「すべての人にほめられる者」が、「不幸だ」と言われています。

 神の救いに与れないからです。今の状況に心を奪われ、真の幸いと喜びをもたらす神に心を閉ざしているから、イエスは彼らを「不幸だ」と言うのです。

 この世界の中で苦しんでいる多くの人々のことを忘れてしまい、神様抜きですべてに満ち足りてしまっているとしたら、神に期待するものは何もないでしょう。そういう意味で、きょうの箇所の後半をわたしたちに反省を促す厳しい言葉として受け取ることが大切です。

 貧しい人は幸いである、という時、貧しさや苦しみが人を幸いにするのではなくて、貧しさや苦しみの中に働く神の支配が人を幸いにするのです。このことが確かな真理であるのは、イエス自身がこの神からの幸いを生き、十字架の死に至るまで、従順であられました。わたしたちにこの励ましを語り生き方を示してくださいました。



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