header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年2月6日(顕現後第5主日) 

み言葉に立つ教会

ルカによる福音書5章1-11
 

 

 「群衆が神の言葉を聞こうとして、イエスのところへと押し寄せてきたとき、イエスがゲネサレト湖畔に立って、二そうの舟があるのをご覧になっていました。この舟から漁師たちはおりて、網を洗っていましたが、彼らに代わってイエスがそのうちの一そうに乗り込んで、陸から少し漕ぎ出すように指示して、舟から陸にいる群衆に向かって、教えはじめました。イエスが舟に着目したのは、話をするための説教壇が必要だったからだけではありません。他にも理由があります。それを物語るのが、共観福音書ではルカだけが4節以下に伝えていますので後で見ていきましょう。

 ルカは、イエスが告げる福音と同じ著者である使徒言行録が告げる使信とを同じ表現を用いることによって、キリスト教共同体のケリクマ、使信の根源がイエスの教えにあることを示しているといわれています。しかし、イエスの教えも使徒言行録の使信も最も深い根源にあるのは、神の言葉です。「神の言葉」とは、神に関係する言葉を読み説くというよりは、神からくる直接語られる言葉です。

 4節で「沖へ漕ぎ出して網を下ろして漁をしなさい」といわれました。網を打つのは昼間、浅瀬に立って行う作業であり、貧しい漁師の漁法でしたが、ルカが描くのは、夜、舟で沖に出て、網を仕掛けており、舟を所有するのは比較的裕福な漁師の漁法であったようです。

 しかし、ルカの関心は漁師たちの裕福さではなく、イエスの「言葉(レーマ)」によって実現してゆく奇跡にあります。 ルカによる福音書では、漁師として最初に名指しされるのはシモンだけです。イエスが乗り込む舟もシモンの舟であります(3節)。このように、ルカではリーダーとしてのシモン・ペトロの姿を描くことに重点が置かれています。シモンを除く漁師の名が明らかにされないのは、ルカにとって、誰と誰がイエスに従ったかと言うことよりも、「何がイエスに従わせたか」が重要であるからと思われます。だから大漁になって、二そうの舟が沈みそうになった、という出来事が詳細にえがかれています。10節になって初めて、ヤコブとヨハネは登場しますが、アンデレの名前は最後まで出てきていません。

 4節の「あなたがたは網を降ろしなさい」は、二人称複数形で書かれていますので、舟にはイエスとシモンの他にも漁師が乗っていたことになります。その漁師たちにイエスは沖に出て、網を降ろすようにと指示したのです。この指示は漁師たちを驚かせたにちがいありません。経験的に「太陽が昇った今、もう魚は獲れないに決まっているのです。職業的な勘や経験を大事にする漁師たちの間には、少々、白けた思いが流れたことでしょう。 シモンはそんな彼らの思いを代弁するかのように、「夜通し働きましたが、私たちは何も獲れませんでした」 「どうせ捕れないよね」と互いに確認するかのように描かれています。

 シモンは続いて「私は網を降ろしてみましょう」と述べるこの時とき、原文は一人称単数形の動詞に替えています。複数形から単数形への交替は、網を降ろしても無駄だと決めこむ他の漁師仲間と、それでも網を降ろそうとするシモンとの対比を表しているのでしょう。シモンが網を降ろすのは、漁師の経験や常識に立ってのことではありません。経験から来る勘や常識から考えれば、獲れるはずがありません。彼がそうするのは、「あなたの言葉(レーマ)を固く信じるからです。」シモンは自分の経験や常識を捨て、イエスの言葉に従いました。

 結果は、どうでしょうか。イエスの言葉の通りに行うと、加勢を頼むほどの大漁になりました。ルカが描く「舟」の出来事はイエスの言葉が実際に働き、それが体験するところでもありました。舟はイエスの語られる会堂の説教壇であるというだけでなく、言葉の働きを体験する場でもあります。ちなみに、「舟」は教会の象徴にもなるのです。教会は言葉の上に立つ共同体であります。そして、言葉が語られるところであると同時に、その働きを実際に成し遂げる場でもあります。

 イエスの言葉の力を目撃したシモンは、この方のいと高きところにいらっしゃいます。偉大なお方であると感じて、イエスの前にひれ伏しました。

 5節では イエスを「先生」と呼んでいたシモンだが、この8節では「主よ」と呼びかけ、「私から離れてください。私は罪深い者なのです」と告白します。それは、シモンの目にした出来事が彼の「罪深さ」を直感させるほどに神々しい出来事であるからです。同時に、恵みに包まれた者は自然と違和感なく、罪の告白を口にできるからです。

 とれた魚に皆が驚いた(9節)とあります。大量にとれた魚によって、イエスの言葉によって得られる恵みの豊かさを受けたのです。

まとめ

 イエスはシモンに「恐れることはない」と語りかけ、むしろ「これからは人間を捕るという使命を与えます。今まで魚を捕っていたペトロですが、これからは、人間を捕らえるようになるだろう、といった意味になります。新共同訳はこのような解釈をさらに押し進め、魚を捕っていた「漁師」から人間を捕る「漁師」に変えられたことを強調します。ルカは最初の共同体が成立していく過程をこのように描写していますが、この過程で強調されるのは、イエスの言葉の力強さであります。キリスト者の共同体は人間的な常識や経験に立つのではなくて、神のみ言葉の上に立つことです。

 この教会共同体は恵みの言葉の力を目の当たりにいていますから、素直に罪を告白できる集団であります。 しかも、使命を与えられた者の集まりでもあります。

 その使命とは、み言葉の上に立ち、神の福音を宣べ伝える共同体です。教会は神の言葉の上に立ち、罪を告白し、「人を招き入」、共同体のための働き人となり、人を生かす働きに参与するのです。この共同体は助け合い、人の痛みを共有する集まりでもあります。これがわたしたちに与えられた救われた者の使命です。

 きょうはイエスの最初の弟子、すべてを捨てて従ったペトロの召命の物語でした。

 わたしたちの日々の生活も主のみ言葉に立つ歩みでありますように。


このページトップ」へ戻る