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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年1月30日(顕現後第4主日) 

神の言葉は異邦人へ

ルカによる福音書2章21-32
 

 先週のルカ福音書414-21節は、イエスがナザレの会堂でイザヤ書の巻物を読み、その後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言しました。これは耳の中で貧しい人々の解放である。というところで結ばれていました。今日の福音はその結びの部分から始まります。貧しい者の解放は、耳の中で成就しているとは、耳を開くことで、聞くことによって満たされるのです。

 このイエスの宣言は、イエスが勝手に言っているのではなく、神が遣わして福音を語らせているので神が共にいて語りかけているのです。

この話を聞いてで、話の展開に少し分かりにくい部分もあるように感じるのではないでしょうか。22節の「皆はイエスを褒め、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」という箇所と、28-29節の「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」の間には、大きなギャップがあります。この経過を辿っていきたいと思います。

 人々は力強い恵みの言葉を語るイエスをほめ、「彼はヨセフの息子ではないか」と驚いています。しかし、この賞賛には、イエスを故郷の英雄として誇る人間的な興味が色濃く含まれています。

 自分たちの地域から誕生したイエスを他の地域の人に誇ることは、自分たちを不必要に高めることであり、同時にまた、人間的な関わりの中でのみイエスを見ることです。彼らはイエスを利用して自らが高くなり、自分たちの姿をイエスに投影して特権集団だと思い込んでしまっているようです。

 預言者を拒絶する故郷(2324節)の人々の姿について、

 イエスは「必ずあなたがたは言うであろう」と述べて、人々の不純な思いを暴き出します。彼らは自分たちだけがようです。当時思われていた預言者イエスの特権を享受できると思い込み、医者がまず自分を癒すべきであるのと同様に、イエスは身内である自分たちに特別な恵みを与えてくれるはずだと勝手に期待してしまいます。彼らの思いは自分たちの利害を求めていきます。しかし預言者は神にすべてを委ねます。だから彼らが神の言葉を受け入れないので、預言者を受け入れることもありませんでした。預言者が働くのは、身内の利益のためにはたらくのではありません。すべての人の救いを望む神のために働くのです。このことを力説するために、イエスは「真理のために私は言う」と語り出します。

 そして、旧約の時代の二つの事例を説明します。

 エリヤとエリシャはともに紀元前9世紀、北イスラエル王国で活動した預言者です。それぞれの物語は、列王記上17章、列王記下5章に伝えられている有名な話です。「シドン」「サレプタ」はイスラエルの北方、地中海に面した位置にあります。「シリア」はイスラエルの北にある国ですが、その国のアラム人の王の軍司令官がナアマンでした。ともに異邦人に神の救いがもたらされた話です。

 具体的に何の話か見ていきますと、列王記上179節に、エリヤの時代に多くの寡婦がいました。天が閉じられていたので雨が降りませんでした。そこで大飢饉が起こったとき、エリヤはイスラエルではなく、北方の異邦の地シドンのサレプタのやもめの所にだけ遣わされ、そこで彼女に養われ、そこで主が働かれました。「小さいパン菓子を作ってわたしに持ってきなさい。なぜならイスラエルの神、主がこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/カメの油はなくならない/ やもめは行って、エリヤの言葉通りにしました。すると彼女も家族も食べ物に事欠かなったのです。主がエリヤに告げたとおりになりました。エリヤは自分の意志で出かけたのではなく、神によって派遣されたのです。もう一つの物語は列王記下5114節で、エリヤの弟子エリシャ異邦人の重い皮膚病の人を癒しています。アラムの王のナアマンという軍司令官が登場します。彼らはイスラエルから一人の少女を捕虜として連れてきて、ナアマンの妻の僕にしました。この少女は女主人に「ご主人様がサマリヤの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病を癒してもらえるでしょうに」といました。アラムの王の赦しを得てイスラエルの王に願い出ました。「家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病を癒してくださいますように。」イスラエルの王は手紙を読んで衣を裂いて怒りました。「皮膚病のひとを送りつけてきて、癒せという。言いがかりをつけてきた」との理由でした。そこで神の人エリシャは、イスラエルの王は衣を裂いたことを聞き、ナアマンをわたしのところによこしてくださいと言いました。ヨルダン川で身を七度洗いなさい、そうすればあなたの体はもとに戻り清くなります。11節、ナアマンは怒ってそこを去っていきました。12「イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれというのか」彼は怒りながら去っていきました。家来たちはナアマンに「ナアマンの預言者は身を清めなさいと」行っただけではないか」と家来たちがいさめました。その言葉に従って、ヨルダン川に身をしたしました。重い皮膚病の人がたくさんいましたが、シリア人ナアマンの他は清くされなかった」と記されています。ここでも受動態で描かれているので神の行為によってなされたのです。

 この二つの預言を語るとき、身内意識に陥りがちな人間は、預言者を自分たちのために利用し、手もとに留めておこうと考えるけれども、神はすべての人の救いを心に留めているのです。だから外へ、外へと出ていくのです。外へとは異邦人のところへ遣わします。

  24節で、イエスは「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」と会衆に語ります。エリヤもエリシャもイスラエルの外に遣わされたというイエスの言葉に憤慨した人々は、イエスを崖から突き落とそうとしますが、イエスは人々の間を通り抜けて行かれました。イエスのこの姿は神の言葉そのものを現しているのではないでしょうか。この出来事を通して、神の言葉にいかに応答すべきかが示されています。イエスの故郷の人々は、どんな反応をしたでしょうか、福音にふさわしくない応答の代表者として描かれています。

 ナザレの人々は神の言葉を目の前にしながら、自分たちのこれまでのあり方に固執してしまった人々です。この自分たちの枠の中に留まっているなら、神の言葉は彼らの真ん中を素通りして去ってゆくのです。

 なぜなら、神の言葉は外へ外へと働きかける動的な力に満ちているからです

 重い皮膚病を癒されたナアマン、サレプタの寡婦のように、自分の古い殻を破って、神の言葉を受け入れていく人は、神の言葉と共に新しい信仰の世界へと出ていくことになるのです。日々の生活において人の権威によらず、神の言葉である主イエスに従って行きましょう。



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