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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年1月23日(顕現後第3主日) 

解放を告げる

ルカによる福音書4章14-21

 イエスは「霊の力に満ちてガリラヤに帰られた」から始まるきょうの福音は、荒れ野で悪魔からの試みを退けたイエスは、ガリラヤへ帰ることになります。
イエスの評判は周りの地方一帯の広まり、皆の尊敬を受けるまでになりました。霊の力に満ちているイエスは、「私の上に主の霊がおられる」というイザヤの預言の成就であります。イエスの宣教のはじめから終わりまで「霊の力」に導かれていることが強調されています。霊の力は神の国の宣教を支える重要な力になります。

 聖霊について見ていきましょう。イエスが洗礼を受けたとき「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降った。」この天から受けた聖霊に満たされて、イエスは荒れ野で悪魔からの誘惑を退けました。悪魔が離れ去ったのちイエスは本格的に宣教の業を始めました。この霊はイエスに宣教の力を与え続け、イエスにメシアとしての使命を全うさせました。聖霊の働きは、苦しむメシアとしてのイエスにその使命を果たさせたのです。イエスは十字架の上で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(23:46)と言って息を引き取ることができました。これは、イエスが神から与えられた使命が主の霊によって成し遂げられたのだ、とする信仰の証のことばでもあります。ここでの「霊(プネウマ)」という語は、ルカ福音書では、イエスの宣教活動の内容を暗示する役割も持っているようです。

 イエスは霊に満たされて、故郷のナザレにやってきました。いつものように安息日に会堂に入りました。朗読のためにイエスは立ち上がりました。朗読の場面を描くこの段落では、イエスの行動に焦点が当てられています。イエスは「立ち上がり、そして座る」という動作を詳細に記述することによって、イエスに人々の視線が注がれています。イエスはナザレの会堂で語った最初の説教で、自分が「主の霊」を受けていることを明らかにします。

イエスが会堂で巻物を渡され、朗読した言葉は「主の霊が私の上に(おられる)。貧しい人々に福音を告げ知らせるために…」で始まり、「主の喜ばしい年を告げるために」で閉じられています(18-19節)。しかも、21節でイエスは「この聖書の言葉は、きょう、あなた方が耳にしたとき、実現した」と宣言していますから、貧しい人々に福音を告げ知らせるために主の霊を受けた「私」とは、イエスご自身を指しています。

 この18-19節の聖書引用の大部分はイザヤ61章1-2節からの引用です。そこには、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年」と記されています。

 それは、ナザレの人々から拒絶された後に、霊に満たされたイエスはカファルナウムで病に苦しむ人々から悪霊を追い出しました。(4:16-43)。神の国の福音は、まず神に逆らう悪霊を霊の力が、イエスを通して支配することを人々に告げ知らされたのです。

 「主の喜ばしい年」は、「主の恵みの年」であります。Uコリント6章2節には、「なぜなら、「恵みのときに、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。」と使徒聖パウロも述べています。「恵みの時」はイザヤ49章8節からの引用です。そこには「わたしは恵みのときにあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」とあります。「主の恵みの年」は、もとは「ヨベルの年」を表します。それはレビ25章10節にあるように、「ヨベルの年」とは、「五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする」それがヨベルの年である、と記されています。ルカでは、すべての民の解放という神の救いがイエスによって実現したことを表すために「主の恵みの年」という表現が用いられています。

 わたしは、この恵みの年を迎えようとしていた1999年の夏、九州の西南学院でキリスト教学校の全国的な集まりがありました。そこに参加したときに、ヨベルの年」のために先進国により発展途上国の債務を帳消しにする運動をしているクリスチャンに出会いました。この時までヨベルの年のことについて、聖書の物語としてしか知りませんでした。このとき説明を聞き署名をしました。レビ記25章10節の「主の恵みの年」が2000年の歴史を通して現実に続けられてきたことに驚きました。次回は2050年です。わたしはこの地上には存在していないでしょう。

 聖霊の力を受けたイエスが果たすべき使命は、貧しい人々に福音を告げ知らせ、あらゆる捕らわれからの解放、主が与える救いを告げることであります。救いは神から告げられるものであり、人はそれを喜ばしいものとして受け取ります。この主からの恵みを告げるイエスの言葉に聞くとき、きょう、救いの時、恵のときを生きることができるのです。主よ、この恵みに与ることを感謝します。



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