header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年1月16日(顕現後第2主日) 

 

ヨハネによる福音書2章1-11
 

 1-2節 三日目に婚礼があり、イエスとその母もそこに招かれていた。

 3-5節 ぶどう酒が尽きてしまえば、祝いも興ざめとなり、新郎も恥をかく。婚宴は続いているが、破局は迫っている。母マリアの「彼らはぶどう酒を持っていない」という言葉には、奇跡を直接求めている。この事態を何とかしてほしいといった切実な願いが言外に込められている。私の「時」がまだ来ていないからだ、という私の「時」とは栄光を受ける時のことだが、それは十字架に上る時のことを指す。その「時」を決めるのは神であり、イエスでもマリアでもない。こうしてイエスは母の要求にそえないことを述べ、この危機を乗り越えられるかどうかは、すべて神にかかっていることを示す。イエスは母の願いを冷たく拒絶したのではない。「婦人よ」との呼びかけには、婚宴の席にいながら、台所のことにまで気を配るこまやかな母への賞賛を読み取ることもできる。イエスは、母のこまやかな配慮を受けとめながら、母の心を神へと向けようとする。マリアは願いを拒まれても、それで心を閉ざしはしない。給仕にイエスの言葉に従うように告げ、神の時に備える。彼女は理解できない言葉を前にしても、信じて待つ女性である

 6-8節 危機の克服 このように神に信頼するイエスと母に、神が応答する。ただし危機を克服するのは神だとしても、人間の側はそれに応じた態度を取らねばならない。そのような態度が、給仕たちの忠実な行動で ある。イエスの指示通りに、彼らは水がめの縁まで、あふれるばかりに水を満たし、それを汲んで宴会の世話役のもとへと運ぶ。この奇跡の特徴は、特別な身振りも言葉もなく、水がぶどう酒に変えられる瞬間も描かれないことである。むしろイエスの存在を通して、水はいつの間にかぶどう酒に変わってゆく。

 9-10節 奇跡の結果の享受) 人々の前にイエスは登場せず、ただ上等の、しかも豊かなぶどう酒が運ばれてくる。それまで通り人々は浮かれて宴を楽しむ。危機があったことも、その危機が乗り越えられた秘密も知らない人々が、この良いぶどう酒を享受するのである。 このような奇跡は、まさに神がどのような方であるかを伝える「しるし」である。神は人が何も 知らずに浮かれている間に、黙ってそっと救う方である。彼の弟子たちは彼を信じた」で終わるが、「弟子たちが信じた」という表現はヨハネ福音書ではこれが最初である。119節からは、洗礼者ヨハネから離れて、イエスのもとに集まる弟子たちが登場するが、この動きの頂点がこの「信じた」である。イエスの「栄光」を前もって現す「しるし」としての奇跡を目にした彼らはイエスを「信じる」。カナの婚宴が1 19節 から数えて、一週間目にあたるのも、このことと無縁ではないだろう。

 ヨハネ福音書でのイエスは「しるし」を行って、ご自分の栄光を示し(211)、神が彼と共におり(32)、罪のない人であることを示し(916)、終末的な救いを運ぶ方であることを表す(614)。従って、しるしは単なる不思議な業ではなく、イエスが誰であるかを示す出来事である。しるしを見て信仰は生まれるが(448)、しるしとイエスを切り離し、しるしがもたらす賜物だけに目を向けるのは間違っている(626)。

 栄光(ドクサ) この語には、ある事柄や他人に対する「考え」や、他人から与えられる「評価・誉れ」「輝き・栄光」を意味する。ヨハネ福音書では、しばしば「誉れ」と「栄光」の意味は重複している。

 ヨハネが強調するのは、ドクサ(誉れ・ 栄光)が誰からのものか、そのドクサを受けるのが誰かである。ヨハネのドクサ(誉れ・栄光)は、第一義的には「神からのドクサ」である。それには「人間からのドクサ」が対置される。ユダヤ人たちは「人間からのドクサ」を受け、それを「神からのドクサ」よりも好む。だが、イエスは「人間からの栄光」を受けず(541)、自分の栄光を求めない(850)。イエスは「彼を遣わした方の栄光を求める者」であり(518)、「神からの栄光」だけを求める。

 それゆえ、「神からの栄光」を受けるのはイエスである。神はイエスの父としてイエスに「栄光を与える方」であり(854)、その栄光はイエスのうちに輝き出る(114など)。多くは「神がイエスに栄光を与える」の意味か、受動態で「イエスが栄光を受ける」の意味である。イエスに神の栄光が輝くのは、自分の栄光でなく、神の栄光を求めるからである。神の御心を行い、自分の栄光を断念するイエスの姿は十字架にはっきりと現れる。十字架は神から遣わされたイエスの任務であり(1227)、その任務を果たして死ぬイエスに(1930)、神は栄光を与えて高く上げ(122832)、復活させる(1017)。そのため、ヨハネ福音書の栄光は、神から遣わされたイエスの死と復活を通して、イエスと神が作り出す救いの輝きを表している。

 十字架に上ったイエスに神が与えた栄光はイエスを通して信じる者に与えられ1722)、満ちあふれる恵みとなる。



このページトップ」へ戻る