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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年1月2日(降臨後第2主日 ) 

幼子は新しい出エジプト(13-15節)

マタイによる福音書2章13-15、19-23
 

 占星術の学者たちがイエスから離れていくと、主のみ使いは夢でヨセフに現れました。「わたしが告げるまでエジプトに逃げなさい。」それを受けて、ヨセフはイエスとマリアを連れて、エジプトへ逃れました。ヘロデが、将来、王座を狙うであろうと思われるイエスを探し出して殺そうとしているからと言う理由でした。そしてみ使いが告げるまで、そこに留まりました。顕現日の日課の22節以下に記されています。ヘロデ王は「ユダヤ人の王が生まれた」(二2)という知らせに不安を抱いて、王座を守るためにイエスを抹殺する計画を立てたのです。幼子の誕生に神経質になっていました。

 このようなヘロデの自己保身と対照的なのは、ヨセフの従順な姿を見ることができます。彼は天使の指示どおり行動しました。夢を見たその「夜」に、直ちにエジプトに旅立ちました。この旅は夜の旅でありますので、危険に満ちていました。

 しかしマタイはその危険だけを述べたいのではありません。むしろこの出来事は「預言者を通して言われたことが実現される」ためでありました。神の歴史が完成に近づくための出来事であります。

 エジプトへ逃げることが、なぜ歴史の完成につながるのでしょうか。

 ホセア書が、出エジプトを述べていることが示すように、マタイの関心ごとは、ヨセフ一家のエジプトへの避難よりも、エジプトからの脱出にあります。

 それを解く鍵は、15節の「エジプトから私の息子を私は呼んだ」というホセア書111節からの引用にあります。ホセアでの「私の息子」 はイスラエルを指しており、そのイスラエルの背きが神の嘆きとともに描かれていきます。ところがマタイは、この「息子」をイスラエルではなく、イエスを指す言葉として読み替えています。

 イエスこそは神に背くことのない新しいイスラエルを切り拓いてゆく導き手だからです。ホセア書の聖句によって、マタイはヨセフ一家とイスラエルの民の出エジプトを重ね合わせていますが、それを幼子イエスをモーセのような人物として描いています。イエスはヘロデ王の幼児殺害命令を逃れましたが、モーセもエジプト王ファラオのヘブライ人の幼児殺害命令から逃れました(出一 22以下)。

  ユダヤ人の間には、申命記18 15節に基づいて「モーセのような預言者がやってくる、それがメシアだ」という考えがあった、ということが使徒言行録の22章に描かれています。(使三 22、七 37)。

 マタイは、エジプトからイスラエルの地に戻るイエスの姿に「新しいモーセ」を見出しているのです。ヨセフ一家の出エジプトは、預言の成就であると同時に、イエスが来るべきメシアであることを明かす出来事となりました。この物語がエジプトに言及するのは、単にヘロデ大王の力が及ばない避難先を告げるためではなくて、モーセに導かれたイスラエルの民の「出エジプト」を思い起こさせました。

 イエスによる新しい「出エジプト」(19-23節)

 ヨセフにイスラエル入国を指示する天使の言葉がありました。「立って子どもとその母を連れて行きなさい。… 子どもの命を探す者たちは死んでいる」(20節)は、出エジプト記4 19 20節を踏まえていますが、それはイエスを新しいモーセと見なしているからでしょう。モーセがエジプトを出て民を解放したように、イエスもまた人々を導いて解放する者になるのです。  20節で天使は「イスラエルの地へ行きなさい」と告げますが、これはただの帰国ではありません。「イスラエルへの入国」なのです、人々を真の約束の地へと導く解放者としての入国であります。しかし、イスラエルでは、ヘロデの息子アルケラオが待ち受けていますので、再び危険と不安がよぎります。神は夢を通して指示を与えました。ヨセフはそれに従順に従いました。ガリラヤへと去り、ナザレに居を構えることになりました。なぜ、イスラエルはそのようなことになっていたのでしょうか。ヘロデ王の死後、王国は3人の息子たちに分割されました。アルケラオは、弾圧政策によって苛酷な統治をしたので、民衆からローマ皇帝に訴えられ、紀元後6年に追放されました。これに対して、ヘロデ・アンティパスの統治するガリラヤは政治的に平穏を保っていました。だからヨセフがアルケラオの統治するユダヤを避けてガリラヤへ向かったという記述は、こうした歴史的背景と一致しています。ナザレはガリラヤ湖の南端から西方20キロ余りの所にある無名の町であり、旧約聖書にも当時のユダヤ教文献にも一度も言及されていないのだそうです。イエスは「ナザレの人」と呼ばれるようになります。

 この呼び名の由来については主に三つの説があります。

 単に「ナザレ出身の人」を指すという説。ヘブライ語の「ナジル」と関係するという説、ナジルとは、サムソンやサムエルのように、誓願によって神に献げられた聖なる者を指します。この説によれば、イエスは、母の胎にいる時から、神に仕えるために、分かたれ選ばれた聖なる「ナジル人」と呼ばれたことになります。

 そして、ヘブライ語の「ネーツェル(若枝)」と結びつける説。この節が、ゼカリヤ6 12節「見よ、これが『若枝』 という名の人である」を踏まえているとすると、「彼は『若枝(ネーツェル)』と呼ばれるであろう」という意味になる。名もない町(ナザレ)に聖別された若枝(ネーツェル)が生じ、メシアとしての働きがいよいよ開始されます。「エジプトから私の息子を私は呼んだ」は、メシアに出会ったマタイにとって、もはや書かれた文字の物語ではなく、神の生きた語りかけになります。


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