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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年12月19日(降臨節第4主日 ) 

マリアのエリサベト訪問

ルカによる福音書1章39-45
 

 ルカ福音書の15節ではまず、洗礼者ヨハネの父ザカリアに天使ガブリエルが現れ、高齢の妻エリサベトが身ごもったという話が伝えられていました(5-25)。そして、26節で6ヶ月目に同じ天使ガブリエルは、ガリラヤのおとめマリアに対して、彼女が救い主の母となることを告げます(26-38)

 きょうの福音は、この二人の女性マリアとエリサベトが会う場面ですが、ここには後のイエスと洗礼者ヨハネの関係が先取りされています。エリサベトはマリアの胎内の子を「わたしの主」(43)と呼んでいますが、成人した洗礼者ヨハネは「主の道を整える」ために来て(34)、この「主」の到来を告げることになります。エリサベトはマリアの親類で、高齢になっていたにもかかわらず、洗礼者ヨハネを身ごもりました。人間的には不可能と思われることです。だからそこに神の力が働いている、ということになります。一方マリアの場合は男を知らない処女でした。彼女が身ごもることは人間的には、あり得ないことです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む(135)からこそ、この処女マリアからイエスが生まれることになったのです。マリアはまっしぐらにエリサベトのもとへ駆けつけます。ちなみにナザレからユダの地方までは、山や丘の続く険しい道であります。3-4日はかかる旅であると言われています。神の救いの計画を知ったマリアはその喜びを分かち合うためにかけつけ、エリサベトに挨拶をします。マリアが挨拶すると、エリサベトの胎内で幼子が「跳ね」、彼女は聖霊に「満たされ」、大きな叫び声を「張り上げて」、「言った」という事が起こりました。エリサベトは胎内での幼子の動きを感じ、不思議な力が働いて、エリサベトは、マリアに向かって言いました。「あなたは女の中で祝福された方です」「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、と歓喜の叫びをあげました。

 45節の「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」は、ルカ1127,28節の次の言葉を思い出させます。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である』」 マリアはただ単にイエスの母だから素晴らしいのではなく、むしろ神の言葉を信じた信仰のゆえに幸いな女性なのです。マリアは自分とは関係のないところで神の言葉が実現することを信じ、願っているのではありません。「このわたしに」と言って、自分の中に神の約束が実現することを信じ、それに自分を委ねていきます。それはエリサベトも同じでした。わたしたちにとっても、神の言葉はわたしたちから遠いところで実現するのではないはずです。

 まさに「このわたしに」実現することとして、神の言葉は語られているのです。だからこそ、わたしたちが自分のうちに実現する神の言葉をどう受け入れ、どうそれに応答するかが問われるのです。マリアの場合には、特別に「み言葉であるイエスを自分の中に宿している」というイメージがあります。わたしたちも、わたしたち自身のうちにみ言葉を宿す、という感覚を持つことができるでしょうか。

 聖霊が神の計画を知らせる という言葉を思いめぐらしたいと思います。

 ルカ福音書や使徒言行録に現れる聖霊に特徴的な働きは「語らせる」ということです。使徒言行録431節に「聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した。」とあります。聖霊は語らせる言葉は「神の言葉」であります。ルカ1-2 章に登場する人物はエリサベトだけでなく、ザカリアもシメオンも聖霊に満たされて、賛歌を歌っています。彼らは、聖霊が知らせた救いを賛歌で歌っています。ルカは彼らの賛歌によって、救いの計画が頂点に到達したことを述べています。急いで駆けつけたマリアと大声で叫ぶエリサベト。この二人の女性を通して浮かび上がるのは「聖なる霊」の姿であります。聖霊が降ったとは本人も気づいてはいません。しかし、「大きな叫び声を張りあげる」という反応によって、それが現されています。真の主人公はマリアでも、エリサベトでもなく、聖霊であります。聖霊がエリサベトの心と口を開かせ、主の母の到来を歌わせています。わたしたちも聖霊の働きによってイエスは主であると告白できたのです。この2人の出会いの中に、「教会」の基本的なつながりを感じ取ることができるのではないでしょうか。「いろいろな問題や悲惨なこともありますが、それでも神の約束は実現に向かっている」ということを分かち合い、その喜びを証し、信仰を確かめ合い、主イエスの教会という信仰者の交わりの場として歩んで行きましょう。


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