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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年12月12日(降臨節第3主日 ) 

洗礼者ヨハネの教え

ルカによる福音書3章7-18
 

 きょうの福音は、イエスの先駆者である洗礼者ヨハネの説教が伝えられています。洗礼を受けに来た人々に対する洗礼者ヨハネの次のような言葉があります。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りをまぬかれると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。蝮の子らよという呼びかかけは、神の子に相応しくない者たちという意味です。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。という大変厳しい裁きのメッセージを語っています。

 アブラハムの子孫であるユダヤ人だから無条件に祝福を受けられるという甘い期待は打ち砕かれます。血筋は何の役にも立たないということです。「救いは血脈によらず」ということでしょう。すべての人は今、「あなたは悔い改めるか」、どうかを問われているのです。

 悔い改めて神の方に心が向かうのかどうかです。そして、「悔い改めにふさわしい実」とは何かが具体的に語られていきます。実とは、生活の中で悔い改めていくことです。ルカでは、悔い改めない者は火の中に投げ込まれるという厳しい裁きの言葉を突きつけられています。裁きは、すでに斧が根に置かれて切り倒される状況にあります。

 群衆や徴税人や兵士は、次々にやってきて尋ねます。異口同音に「私たちは何を行うべきか」と尋ねます。自分の生き方を反省し始めた彼らは、今までの生活とは劇的に違う生活を心に描いていたのかもしれません。しかし、洗礼者ヨハネの答えは、拍子抜けするほど平凡なものでありました。

 洗礼者ヨハネは、群衆には「分け与える」ことを勧めました。徴税人には規定額以上の税を「取り立てるな」ということを、兵士には「ゆするな、偽って告発するな、自分の給料で満足する」ことを求めています。

 群衆には「分け与える」ことを、自分だけが持っていれば良いという、自己中心的な生き方をやめること、自分だけが豊かになるという生き方をやめ、持っていない人に分け与えることでした。

 徴税人には規定額以上の税を「取り立てるな」ということを述べています。「徴税人」はユダヤ人でありながらローマ帝国のために同胞から税金を取り立てる権利を買って、利権を持っていました。だから経済的に豊かな人たちでした。彼らの中には不正な取立て、すなわち定められた額以上に多くを取り立てることをやめなさいと言われます。徴税という職業だ、というだけで罪びとのレッテルを貼られていました。規定通りにするようにすれば、悔い改めになるのです。

 ゆがんだ日常生活を捨て、洗礼者ヨハネのように荒れ野に出て厳しい修業に入れと命じたのではなく、今の生活のなかで出会う隣人を大切にしなさいと教えています。兵役についているものも、ゆすり、偽りの告発をするな、自分の給料に満足しなさい、ということだけでした。「何を行なうべきか」という問いかけは、現実の生活の中で示していくことが悔い改めです。悔い改めに相応しい洗礼を受けることです。

 最初に洗礼を受けるために登場した人たちは、オクノス、群衆でしたが、15節ではラオス、民衆という表現に変わっています。ヨハネに従った人は、民衆、民に変えられています。そして、この民の特長は、待ち望んでいる人のことです。ヨハネの使命は群衆を神の民に変えていくことでした。すなわちルカ福音書では、救いを受ける準備をできた人のことです。雑多な群衆から「民」に整えられます。このように準備を整えるのはヨハネの役割でした。

 メシアを待望していた人々に対して、ヨハネは「わたしよりも優れた方」の到来を予告しました。わたしは水で洗礼を授けるが、後から来る方は力ある方である。

 「水による洗礼」と「聖霊と火による洗礼」が対比されています。では「聖なる霊と火において洗礼を授ける」とは何でしょうか。「霊」の「風と火」のイメージは「聖霊降臨」を指しています。聖霊に包まれているのです。17節には「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」という言葉があります。「まず麦を叩いて実から殻を外しますが、そのままでは実と殻が混ざった状態です。手箕は、その混ざった状態のものを空中に放り上げます。殻は軽いので「風」に飛ばされ、重い実だけが残ります。きょうの福音をまとめますと、洗礼者ヨハネは裁きが近づいていることを説き続けました。これを聞いた群衆は悔い改めを表そうとしました。ヨハネはそのような群衆を励まし、彼らを来たるべきメシアを待ち望む「民」に仕上げてゆきました。洗礼者ヨハネは自分の持ち物を分け与えることを命じました。このような勧めをするヨハネのことを、民衆はメシアではないかと思っていましたが、ヨハネは自分よりも優れた方が来ると述べています。ヨハネがこのように勧めるのは、すぐ近くにメシアの到来が迫っているからであります。主が私たちの近くに来られることが、私たちの喜びとなり、自分だけの豊かさを求めるのではなく、生活の中で隣人を大切にし、共に「メシアを待ち望む」のです。主が近くに来られるという知らせに励まされて生きるところに、神の民の姿があります。



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