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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年12月5日(降臨節第2主日 ) 

神の言葉の働き

ルカによる福音書3章1-6
 

 降臨節第2、第3主日の福音では、毎年洗礼者ヨハネについて記された箇所が選ばれています。C年はルカ福音書の12章で、洗礼者ヨハネとイエスの誕生・成長の話が伝えられています。そこにはヨハネは主イエスの先駆者として描かれています。きょうの箇所でも洗礼者ヨハネはイエスの到来のためにその道筋を整える人として描かれています。

 きょうの福音から見ていきましょう。この3章の1-2節前半では、「神の言葉が降った」時代背景について述べています。それが起こったのは、皇帝ティベリウスが統治している十五番目の年のことであります。そして、宗教的には「大祭司アンナスとカイアファ」のもとで起きた出来事であります。イエス時代の政治上の権力者と宗教上の権力者が示されています。このように為政者の名を詳しく述べるのは、これから語られる出来事が歴史上の確かな出来事であると明確に歴史の中に位置づけることでした。同時に、権力や権威を求めてうごめく人間社会の愚かさをほのめかすためであろう、と考えることができます。

 このような時代を背景として洗礼者ヨハネが現れるのです。しかし、彼が登場する舞台は、華やいではいても権謀と術策がうずまく権力者の世界ではなく、それらとは真逆のヨルダン川の周辺の「荒れ野」でありました。

 荒れ野に登場したヨハネの上に「神の言葉が起こりました」。これは預言者がよく使う表現法であります。神の言葉がくだった者は神からの力に突き動かされていることを表す表現であります。洗礼者ヨハネがヨルダン川に来て洗礼活動を始めたのは、神が彼を促しているからです。

 3節は「そしてすべてのヨルダ川周辺の中へ彼は来た、…悔い改めの洗礼を宣べ伝えながら」という文章です。直訳でシンプルに述べますと「彼は来て、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」となります。聖書の「悔い改め」は、旧約聖書の「神へ立ち帰る」に対応した語です。悔い改めは生き方の一部分の手直しでは終わらないで、生きる姿勢のすべてを神へと向けることを表します。「神の救い」はもうそこに来ているのです。悔い改めて生きる生き方が、聖書の述べる「悔い改め」であります。だから、ルカは洗礼者ヨハネの使命を救い主に向けて人々を準備させることだと強調しています。「悔い改めの洗礼」とは、悔い改めを与える洗礼という意味ではなく、悔い改め、つまり生きる姿勢の全面的な転換を表すためのしるしとしての洗礼という意味でしょう。

 イザヤ書40章の1節から見てみましょう。「1慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。2エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。/罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。/3呼びかける声がある。/主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。/4谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。/険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。/5主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る」このイザヤ4055章は「第二イザヤ」と呼ばれています。139章とは別の、バビロン捕囚時代(紀元前6世紀)の無名の預言者の言葉と考えられています。この捕囚の苦しみは自分たちの罪の結果だから仕方ない、と考えていた当時のイスラエルの民に向かって、神による赦しと解放を告げるのが第二イザヤのメッセージでした。

 イザヤ書本文では、「荒れ野に道を備え…と呼びかける声」となっています。荒れ野の道とは、捕囚の地バビロンからイスラエルの民が神とともに帰国する道でした。「道を備えよ」と「呼びかける声」は本来、天から預言者に向かって呼びかける声のことでした。イザヤ書本文では「主」は「わたしたちの神」のことですが、福音書の引用では「わたしたちの神のために」が省かれ、「主」をイエスのことと受け取っています。

 ルカが受動形で描いています。これは神が行為の主体であることを表す受動形であるなら、谷を満たし、山や丘を低くし、でこぼこの道を平らにするのは神であります。ヨハネの呼びかけに答えて、主を迎える道を準備し始めるのは「あなたがた」でありますが、それを完成させるのは神です。私たちは準備しようと決断しても、深い谷や越えにくい山、どこまでも続く丘やでこぼこで歩きにくい道にぶつかれば、決意も鈍ってしまいます。しかし、悔い改めて準備を始めれば、神が手助けして、主の道を完成させてくれます。ルカがイザヤ404節を引用したのはそれを述べるためでしょう。さらに、ルカがイザヤ405節をも引用したのは、そこに「すべての肉は神の救いを仰ぎ見るだろう」という句があるからです。ルカ230節以下の「シメオンの賛歌」にも「万民が神の救いを見る」とあるように、ルカは全世界が「神の救い」にあずかることを好んで強調しています。

 この目的は「罪のゆるし」です。罪とは神と断絶することですから、回心とそのしるしである洗礼は、「罪のゆるし=神との和解」をもたらすものなのです。もちろん、このことは本当の意味ではイエスによって実現することになります。

 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、洗礼活動を行っても、すべての人がそこに「神の言葉」の働きを見るとは限らないのです。しかし、イザヤ4035節を思い起こすルカは、そこに「神の言葉」が、働いているのを見ているのです。神の働きを知っているから、救いの完成を確信することができるのです。

 わたしたちは、まさに「神の言葉」が荒れ野のこの世に現われ、洗礼の先駆者としてヨハネを通して、そしてイエスを通して神の言葉が実現したのです。わたしたちは、神の言葉に希望をおいて生きることができるのでしょうか。神の言葉を聞いて受け入れて、信じて救い主の到来を待ち望んで歩みましょう。



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