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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年11月28日(降臨節第1主日 ) 

人の子がくる

ルカによる福音書21章25-31
 

 ルカによる福音書2125-31の終末についての説教からです。場面は少し違いますが、内容としては、先々週の主日に読まれたマルコによる福音書の13章の箇所とよく似ています。一年の終わりの「終末」というテーマは降臨節の初めに引き継がれていきます。「降臨節」は英語では「Advent」で、「到来」を意味しますが、この到来には2重の意味があります。 それは、まず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕を祝うための準備期間であり、また同時に、それは降誕の追憶を通して、やがて、来るであろう、今既に来ているであろう、終末時におけるキリストの第二の来臨を待ち望むことへ、心を向ける期間でもあります。これが降臨節の主を待ち望む時であることです。わたしたちは、フロンタルも紫色に替え、慎み深く主イエスを待ち望みます。

 きょうの福音書を見ていきますと25節の「それから太陽と月と星に徴が現れる」というような天体の異変が起こります。イザヤ書1310節に、「天のもろもろの星とその星座は光を放たず、太陽は昇っても闇に閉ざされ、月も光を輝かされない」と預言者イザヤが記しています。エゼキエル書327節、ヨエル書210節などにも見られます。これは、人間の罪に対する神の裁きが訪れることを表す表現です。人の子は「雲の中で」来るというのです。この「雲」は人の子が乗る乗り物と取ることも可能ですが、神の現存を表す「雲」と考えることもできます。人の子は神として「力と多くの栄光」を携えて、やって来るのです。人はこの世に生を受け、イエスに導かれたその人の生の終わりに天に引き上げられ、神のみ許に安らかに憩います。これが解放された魂であり、十字架の愛に贖われたキリスト信者の生涯であります。

 いつか「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになってもそれは時間と空間の中にある肉体的生命の終わりの時」ですが、同時に時間の流れを越えた「永遠」との出会いの時でもあります。見て、知る(29-31節) 日常の中で目にするいちじくの木を「たとえ」として、イエスは教えます。木々が芽を出すとき、それを見ているあなたがたは自分の力で、「夏が近くにある」と知ります。それと同じように、出来事、起こることを見るとき、「神の支配は近くにある」と知ることを求められています。ここでは、ただ救いの時を見逃すなと警告しているだけではないのです。むしろ、人々が気を失うほど恐れても、キリスト者には希望が与えられていると述べています。人の子の到来が解放の時だと知っている者は、この今の生活に注意を集中することができるのです。キリスト者とは、苦難の向こうにイエスの姿を見て、頭をあげることが許されている人のことです。解放の時を信じる者は神への信頼を生きる者たちです。だからこそ、たとえ苦難の出来事であっても、それを「見る」とき、それが起こる意味を「知る」ことができるのです。キリスト者とは、出来事の向こうに働く神の力を見抜く目を持つことのできるものです。いつか「その日が不意に訪れるまで、今をどう生きるか」がわたしたちに問われるのです。



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