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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年11月21日(聖霊降臨後第26主日 ) 

救いは人の子によってもたらされる

マルコによる福音書13章14-23
 

 これまでエルサレム入城以後、イエスは律法学者と論争の中で人々を教えてきましたが、マルコによる福音書13章には、イエスが弟子に語ってきた教えがまとめられています。これはマルコの「小黙示録」と呼ばれています。14章から受難の物語に入っていきます。イエスが死を目前にして語っている点では「遺訓」とも言えますが、やがて来るであろう再臨ということを視野に入れて終末について語られています。

 きょうの福音は、受難のイエスこそが、終末の時に再臨する栄光の人の子であることを明きらかに示しています。13章1節から見ていきましょう。

 1節に「イエスは神殿の境内を出ていかれるとき、弟子の一人は、『先生ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう』」と感嘆しましたが、「イエスは一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とこの壮麗な神殿の崩壊をイエスは告げます。(1-2節)このエルサレム神殿の修築はヘロデ大王によって行なわれました。工事は紀元前19年から始まり、前9年に大方は終了しましたが、最終的には紀元64年まで続いたそうです。

 イエスはかつてガリラヤ湖で「船に乗って腰を下ろし」湖畔の群衆に「たとえでいろいろと教えられ」ましたが、今は「オリーブ山」でキドロンの谷を挟んで「神殿の方を向いて座って」弟子たちに話しています。ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの4人は2節の預言に驚き「そのこと」すなわち神殿崩壊は「いつ起こる」のかと「ひそかに尋ねた」とあります。オリーブ山でこの神殿の崩壊について語ったのです。「人に迷わされないように気を付けなさい」との警告は未来に関する遺訓のひとつの主題のようであります。わたしの名を名乗って「わたしがそれだ」と言って、多くの人を惑わすだろう。と主イエスは言います。

 そして、彼らに惑わされ、終末は、今すぐにでも来ると信じて熱狂的な終末接近の信仰に対して「まだ世の終わりではない」、「これらの産みの苦しみの始まりである」といわれます。終末の到来までにはさらに大きな艱難があります。(7節)。戦争、地震、飢饉は黙示文学では終末時に「起こるに決まっている」艱難に数えられていたものと思われます。家族間の対立も終末の時に現れるとされています。その中で最大の苦難は「荒廃の憎むべきもの」(14節)の出現である、と述べています。しかし、8節では、それらの苦難は「産みの苦しみの始まり」であり、「まだ世の終わりではない」(7-8節)のです。終末のしるしではないのです。

 14節から見ていきますと、「憎むべきもの破壊者」という表現は、ダニエル書121 節では、紀元前168年にシリア王アンティオコス四世エピファネスが行った神殿の冒を表しています。エピファネスはエルサレム神殿の祭壇を取り除いて、異教の祭壇を作ったのです(ダニ9271マカ1:5459、6:7)。この歴史的背景を踏まえますと、このダニエル書の引用は、紀元66-70年の第一次ユダヤ戦争において行われたローマ軍によるエルサレム神殿の冒涜を示しています。従って、「立ってはならないところ」とは神殿であるだろうということができます。なお、屈辱的なのはローマ軍の総司令官ティトスは、崩壊したエルサレム神殿跡にローマの神をまつる神殿を建てています。

 もう一つは、新約の時代の紀元68-69年、ローマ軍がエルサレムを包囲した際、ユダヤ軍の中では熱心党の部隊と他の部隊が対立し、いたるところで殺人を犯しています。「荒廃の憎むべきもの」は神殿で犯されたこれらの犯罪を表しているという解釈もあります。

 「取り上げるために降りて入るな」「取り上げるために戻るな」屋根の上にいる人は、「何かを取り上げるために、降りて家の中に入る」ことを禁じられます。また、畑にいる人は「上着を取り上げるために、戻る」ことを禁じられています。「取り上げるために何々するな」という禁止命令が繰り返されています、それは危険を避けて山々へ逃げるために、一刻の猶予もないことが示されています。緊急性を強調しているのです。だが、 身重の女性や授乳する女性が「不幸だ」とされるのも、危険が差し迫っていることを強調するために言われています。また「冬」という季節は雨季であり、乾期よりも避難が困難になります。これはパレスチナ地方の気候風土からの視点です。乾期には水のない谷となるワディは、雨季には激しく水が流れる谷川となります。だから逃げる時には非常に困難になりますので、雨季である冬におこらないように祈りなさい、ということになります。20節では「主はご自分のものとして選んだ人たちのために」とあり、「選んだ」は「自分のために引き抜いた・選び出したことを意味します。これはマルコでは教会の信徒を表しています。教会の信徒を惑わす似せ預言者が到来します。しるしや不思議な業を行ない選ばれた教会の信徒を惑わします。それらに気を付けなさい、と諭しながら、終わりの時のしるしである「栄光を帯びた人の子の到来」へと目を向けさせています。

 マルコによる福音書1324-25節には、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」とあります。黙示思想の影響によって当時のユダヤ人たちは、天変地異は世を裁く人の子の到来の前兆、すなわち神の最終的な裁きの開始を告げる「しるし」だと考えておりました。人々は天変地異と結びついた神の裁きを恐れていたのです。しかし、「人の子の到来」は「選ばれた人たちを四方から呼び集め」、救いをもたらすのです。キリスト者が待ち望む救いは、神殿とは切り離された救いであります。ユダヤ教の神殿から追放され、キリストを信じる選ばれた人々のところへ突然訪れます。来るべき人の子の到来にすべての希望をかけるようにと呼びかけています。



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