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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年11月7日(聖霊降臨後第24主日 ) 

神にすべてを委ねて生きる

マルコによる福音書12章38-44
 

 マルコによる福音書では11章のはじめでイエスはエルサレムの町に入り、神殿の境内でさまざまな人と論争しました。論争した人たちは当時の社会の中で富や力をもっている人たちでしたが、彼らとイエスとの対立の溝は深まっていきました。きょうの福音では、また、律法学者と「やもめ」についてと、金持ちと「やもめ」について語られています。律法学者をよく見なさい、と律法学者の行動に対して注意を喚起しています。今日のもう一つの教えでは、金持ちではなく、神殿の庭で出会った一人の貧しい「寡婦」の姿をイエスは高く評価しました。 きょうの福音について詳しく見ていきたいと思います。

 イエスの時代のエルサレムの神殿には多くの富が集まっていました。そこには祭司やサドカイ派など神殿と結びついた裕福な人々がいました。ファリサイ派は律法とそれを何世代もの学者が詳細に解釈してきた「口伝律法」を大切にし、それを厳密に守ろうとした人たちです。なかでも律法に精通していた律法学者は、律法によって民衆を指導していたので、人々の尊敬を集めていました。マルコのきょうの箇所で、イエスは何を批判しているのでしょうか。一つは彼らの行動のすべてが「人に見せるため」だということです。長い衣をまとって歩き回り、人々の注目を浴びようとしました。会堂では上席、宴会では上座に座ろうとしました。この批判の中には「やもめの家を食い物にする」(40)という言葉が出てきます。これは41節以下の寡婦の話に繋がって行きます。「見せかけ」と訳した語には「言い逃れ・口実」という意味もありますので、「やもめの家を食い尽くしていることを隠すための言い逃れとして、長い祈りをする」という意味に取ることもできます。いずれにしても、この段落での「やもめ」は社会的に見て食い物にされやすい弱者として描かれています。

 やもめは、「賽銭箱に投げるすべての人々よりも」、お金を投げ入れていたすべての人の中のだれか一人が比較対象になっているとも考えられますが、お金を投げ入れていた人々全体と比較されていると取ることも可能であります。そうであれば、やもめの態度はいっそう賞賛されたことになります。44節の最後の行の「生活」は、「生活費」の意味にもなります。しかし、ここでは「生活」の意味で使っていると思われます。「欠乏の中」にあるやもめが、「持っていたすべてのもの」を投げ入れたことに、彼女の生活全体が神に差し出されていることが示されているからです。この段落での「やもめ」は、人の力を期待できないために、神にのみ信頼する人として表しています。 きょうの構成はこのようになっています。

 彼らは長い服を着て権威を見せびらかし、人々からの尊敬を追い求め、豊富な知識を活用してやもめの財産を不当に手に入れ、それを覆い隠すかのように、長い祈りを行います。このような偽善はただ律法学者のみに見られるのではありません。イエスが批判するのは律法学者全体ではなく、権威や尊敬を求め、やもめを抑圧し、見せかけで祈る者たちであります。先主日で、イエスが「どれが第一の掟か」と尋ねた「律法学者の一人」はイエスによって賞賛されている律法学者もいました。しかし、一つ足りないものがある。それは福音を信じなかったことです。

 きょうの福音では、長い祈りは自分が他の人々より優位に立つための手段にしてしまっているというのです。このような人は、人一倍厳しい裁きを受ける、といわれています。それは教会の指導者への警告でもあります。いや、特別な指導者だけでなく、この律法学者の姿は、わたしたち皆の生き方への警告だとも言えるでしょう。社会的な弱者を食いもの尽くす者たち、これをごまかすために長い祈りをしてごまかしてしまいます。この律法学者と対極の立場にいたのがやもめでした。ここでは、やもめの弱い立場に付け込んで、その遺産を食いものにする当時の律法学者たちは批判されています。聖書の中で、やもめは、寄留の他国人や孤児と並んで、いつも社会的弱者の代表として取り扱われています。寄留者とは、周囲に自分を守ってくれる同胞のいない人々です。孤児は自分を守ってくれる親がいない子どもであり、やもめは古代の男性中心の社会の中で自分を守ってくれる夫を失った人でした。彼らの後ろ盾は神しかいないのです。だからこそ、この人々を大切にすることを律法は要求していたのです。

 第二段落では、当時の神殿の境内には、神殿の建物から一番遠いところに「女性の庭」と呼ばれる部分があって、女性はそれより奥には入れませんでした。そこに賽銭箱がありました。

 この女性の庭にあった賽銭箱は、雄牛の角で作ったラッ パの形をしていたそうです。ラッパ型の容器は13個あり、そのうちの6個は自発的な献金のため、2個は神殿税のため、その他の5個には、鳥の献げ物など、特定の目的が書かれていました。

 「この貧しいやもめはすべての人々よりもさらに多く投げた」イエスが見ていたのは、賽銭の金額の多少ではありません。だから、「この貧しいやもめはすべての人々よりもさらに多く投げた」といいます。このやもめが納めた賽銭は二レプトンであった。レプトンはローマの銅貨で、一デナリオンは労働者の一日の賃金の一二八分の一にあたる小銭です。イエスは「すべての人々よりもさらに多く投げた」と賞賛しています。やもめは持ち物すべてを献げたからです。その理由が44節に述べられています。次のようになります。すべての人は この女は 彼らがあり余っているものの中からですが、彼女は欠乏の中から彼女が持っていたすべてのものを投げたのです。それは彼女の生活全体を投げ出したからです。

 神の目から見ると、余っているものの中から出したすべての人は「ゼロ」を投げたに等しく、やもめは持っていた「すべてのもの」を投げています。神が求めるのは金額ではありません。神が求めているのは、生活全体であり、神に託して生きるその姿勢であります。

 全財産を差し出してしまえば、残るものは何もありません。このやもめの献金はやはり無謀でしょうか。きょうの旧約聖書で読まれました列王記上17章の物語も似ています。干ばつの中で預言者エリヤからパン一切れを差し出すように求められたサレプタのやもめは、最後の一握りの小麦粉でパンを作り、それを差し出します。すると「主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない」(列王記上1714)という神の言葉が実現した、というのです。すべてを差し出したところに神の救いの力が働くという体験がわたしたちの中にもあるでしょうか。イエスのご受難・十字架の死・復活の道において起こったことがすべてを投げ出したイエスの姿だったのです。神殿で出会った商人や金持ち、社会的・宗教的指導者たちの姿にイエスは心を動かされませんでした。彼らの生き方とイエスの生き方はあまりにもかけ離れていました。イエスが最後に出会ったのがこの貧しい女性です。わたしたちもこれに倣う生き方を送りたいものです。


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