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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年10月31日(聖霊降臨後第23主日 ) 

最も重要な戒め

マルコによる福音書12章28-34
 

 

 これまでイエスが対話した相手は、祭司長・律法学者・長老(1127節以下)、ファリサイ派・ヘロデ派(1213節以下)、サドカイ派(1218節以下)などで、皆、当時のユダヤ人社会の宗教的・社会的な指導者たちでした。多くの対話はイエスに対して攻撃的な内容なので「論争物語」とも言われますが、きょうの場面は、エルサレムの神殿の境内になっています。 

 きょうの箇所は論争とは言えないほど、イエスとユダヤ教の律法学者の意見は「戒めに関して」一致しています。

 ユダヤ教には613もの掟があった。と言われています。これだけ多くあれば、「どれが第一の戒めか」という問いかけが当然のように生じてくることでしょう。こうして戒めをランクづけようとする努力がなされていたようです。

 彼らのおもな職務は、律法の研究にたずさわり、律法やその解釈を教えることであります(マコ1:22、マタ7: 29)。さらに、律法やその解釈を運用して、人の振る舞いや物事の是非を裁定するのも重要な役目でした。律法学者は このような職務ゆえに、「ラビ」と呼ばれ、ユダヤ教社会では名誉ある地位を占めていました。人々の尊敬も集めていました(マコ12:38など)。

 彼らの律法から見れば、イエスの行う癒しは神への冒涜であり(マコ2:6)、徴税人や罪人と食事をすることは許されていませんでした(マコ2:16)。また、手を洗わないで食事をする弟子たちは「昔の人の言い伝え」に反しているとされていました(マコ7:1)。これまでイエスと弟子は、そのように律法学者から指摘されました。

 しかし、きょうの福音ではイエスも「ラビ」と呼ばれ、律法の解釈をめぐる論争に示されるように、イエス自身が律法解釈の権威あるものとして描かれています。

 イエスは学者たちに対抗して、彼らの律法に対する態度を批判しますが、それは律法の解釈に固守しすぎて、「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしている」のです(マタ23:23)。しかしイエスは、そのないがしろにされている正義や慈悲を実現するために行動します(マコ31以下)。そうしたイエスの一連の行動は律法学者をはじめとするユダヤ教の指導者層から反感を買い、憎しみまで抱かせました。

 しかし、きょうの12章に描かれている律法学者は違っています。イエスが「第一」に取り上げた掟は、ユダヤ人が毎日唱えていた祈りの言葉の申命記64-5節です。「聞け、イスラエルよ、私たちの神、主は唯一である」という申命記の部分を引用しています。その前の申命記62節では「あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守ることは、「長く生きるため」であると述べ、それから「聞け」と呼びかけて、「あなたの神、主を愛しなさい」と説いています。戒めは神の呼びかけであり、招きなのです。

 神を「私たちの」神とわざわざ断るのは、出エジプトなど、神との親密な歴史を思い起こさせ、神の愛に注意を向けさせるためです。その神の愛に気づいた者に「あなたの」神を愛しなさい、と呼びかけています。

人は「心、魂、理性、強さ」など、人間の持つすべての力をあげて神を愛せるのは、人が神を愛したからではなく、神がまず、先に人を愛したからである。と救いの歴史を想起させ、呼びかけています。

 イエスが「第二」の戒めとしましたのは、「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」という戒めでありました(レビ19:18)。「あなた自身を愛するように」とありますが、これは自己愛を肯定するだけではなく、自己愛に含まれる熱心さに目を向けさせ、自分を愛するあの熱心さで隣人を愛するように、と求められています。神への愛が「第一」とされ、隣人愛が「第二」とされていますが、この区別は戒めの優劣を示す第一、第二ではありません。単純に順序を示し、「同じように重要な戒めの一つ目は…二つ目は…」の意味でしょう。

 イエスにとって大事なことは、「神と隣人への愛よりも大きい、他の戒めはない」ということであります。つまり、イエスによれば、神と人への愛は他の掟よりも大きく抜きんでた戒めであり、律法全体を集約する戒めである。とイエスは言い切ります。

 神の言葉を説くことを使命とする「律法学者」の一人は、イエスの答えを聞いて、「見事です、先生、おっしゃる通りです」と述べています。

 彼は「神は唯一である」というイエスの答えに賛同するだけでなく、「真理」を語ったということでイエスを認めて、イエスを「先生」と呼んでいます。これまで、共観福音書でイエスを試そうとして嘲笑するかのように「先生」と呼んだという記述とは全く違います。33節で、律法学者は「主なる神を愛すること」と「隣人を愛すること」を共に「まさっている」の主語としていることから分かりますように、二つの愛を緊密にひとつとして、それを「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえより優れている」と述べ、愛を欠いた祭儀のむなしさを主張しています。この律法学者が加えた二つの事は、イエスの意図に沿っているから論争に終止符を打ちます。

 イエスは律法学者が「賢明に」答えたのを見て、彼を賞賛し、「あなたは神の国から遠くない」と述べました。イエスは「遠くない」と言われたのは、まだすべきことが一つ残っているからです。そのすべきことは何でしょうか? イエスの福音に聴き従うことです。 ユダヤ教徒と、律法では一致しました。足りないところは、イエスの福音を信じることです。だから神の国から遠くないのです。

 このように「律法学者の一人」がイエスに賛同したのは重要であります。旧約に示された神の言葉と福音の言葉との間には対立というものがないのです。神と隣人への愛は、旧約の民にも新約の民にとっても、同じ神の呼びかけです。イエスの教えとユダヤ教の教えが一致しました。

 しかし、律法学者の問題は、掟を守ることによって神の救いにあずかることができると考え、自分の力で救いを得るとしたことでした。

 丁度、5004年前の1031日ウイッテンベルク城の壁にマルチン・ルターは95か条の論題を提起しました。ルターは、神の救いを求めて、修道生活を送っていました。そのために難行苦行を積み、自力で救いを求めていました。

 いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、善業を行ったとしても、神の前で自分は正しいという確信が得られませんでした。この現実にルターは、苦しみ続けますが、あるとき突然、新しい理解が与えられるという経験をします。

 ルターは、人は救われるのは、善行によるのではなく、信仰によってのみ義とされること、すなわち人は義とされるのは、すべて神の恵みであるという理解に達しました。ようやく心の平安を得ることができました。

 わたしたちは、神の恵みがあることを忘れ、自分の力に頼ろうとした結果、守れる人守られない人が生じます。そこで守れない人を区別するという構造が生まれます。 貧しく律法を知らない人々、守れない人々を「罪びと」として切り捨てることになってしまったのです。

 しかし、守り切れなくても、そのために神が執り成す方が遣わされているのです。人が神を愛する前に、神が人に愛を差し出して下さっているのです。もうすでに執り成す方が神から遣わされたのです。十字架にかけるために御独り子イエスを世に遣わされました。この神の愛を人として地上で生きて示した福音そのものであるイエスに聞き従うとき、人は神と隣人への愛を生きる者へと変えられていくのです。このことを今日の福音が告げているのではないでしょうか。



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