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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年10月24日(聖霊降臨後第22主日 ) 

召し出されて、イエスに従う

マルコによる福音書10章46-52
 

 

 主イエスのエルサレムへの旅は、ガリラヤに始まりエリコの町に到着しました。エリコはヨルダン川の西岸にあり海面よりも250mの低地でありました。

 ここからエルサレムまでは残り30kmを残すまでになりました。

 きょうの福音は、これまでイエスに従うことのできなかった金持ちの男の話(1017-22)やイエスの受難の道を理解していなかった弟子たちの姿(1035-45)とは対照的に、イエスに従っていったバルティマイの姿が伝えられています。

 この福音では、病人の窮状が述べられ、そしてイエスと病人が出会い、病を癒して欲しいという懇願を受けて、癒しの言葉を述べられ、癒しの確認がなされています。

 そして、これまでイエスは奇跡を行なった後、秘密にするように命じていましたが、群衆や弟子たちを遠ざけませんでした。彼らの公開の場で奇跡を行ないました。それでは詳細を見ていきましょう。

 これまでイエスはナザレのイエスと呼ばれていましたが、イエスと弟子たちと群衆がエリコを出ようとしていた時、バルティマイは、イエスのことを「ダビデの子よ、イエスよ」と叫びますが、このダビデの子というのは当時の人々にとってはメシアを表す称号だったのです。

 「わたしを憐れんでください」は物乞いをするときにいつもバルティマイが使っていた言葉なのでしょうか。イエスの周りにいた人々はこのバルティマイを黙らせようとしますが、それにもめげずにバルティマイが更に叫び続けます。

 イエスは弟子や群衆にとって王・メシアかもしれない重要人物です。しかし、彼らが期待するメシアは政治的な勝利者でありますから、何の役にも立たないと彼らが思う「盲人の物乞い」などに係る暇などないと人々は考えたのです。それでも、叱られてもバルティマイが叫び続けます。イエスは熱く訴えるバルティマイの叫びを聞きます。「安心しなさい、立ちなさい、お呼びだ」イエスが呼んでいるから元気を出しなさいというのです。それを聞いて、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」イエスのところへやってきました。バルティマイが「盲人の物乞い」であったことを思えば、たいへんなことでしょう。この上着は夜には掛布団の役割もするものです。おそらく彼の唯一の財産だったでしょう。そして、彼は目が見えないのですから、ふだんはそれを肌身離さず、細心の注意を払いながら持ち歩いていたはずです。それなのに彼は、自分の持ち物も自分の安全も手放すかのようにして、イエスのもとに駆け寄りました。それは「イエスが自分を呼んでいる」と知ったからです。すべての人に邪魔者扱いされている中で、イエスという方だけは自分に目を留め、自分を呼んでくださる、というバルティマイのこの喜びをわたしたちは追体験し、感じとることができるでしょうか。

 イエスはバルティマイに「何をしてほしいのか」と問いかけます。先主日の1036節でイエスが弟子のヤコブとヨハネに聞いた問いと同じです。自分たちに高い地位を約束してほしい、というヤコブとヨハネの願いをイエスは退け、答えませんでした。しかし、バルティマイの願いには答えます。バルティマイの願いは「先生、目が見えるようになりたいのです」というものでした。これも自分の利益を求める願いではないでしょうか。二人の弟子の願いとバルティマイの願いは、どこが違うのでしょうか。確かに言えるのは、バルティマイの願いは単なる願望以上のもの、苦しみの中からの必死の叫びだったということです。イエスは受難と死に向かう旅の最後まで、このような叫びに耳を傾けていました。

 イエスの「あなたの信仰があなたを救った」という言葉が、この福音書において最も大切なものになっていきます。マルコ福音書では、534節で出血の止まらない病気がいやされた女性に向かって言われた言葉と同じです。この「信仰」は、「イエスはダビデの子である」と信じるような頭の中の信仰ではありません。「この方ならなんとかしてくださる」という必死の思いでイエスに向かっていった態度そのものです。自分の希望と信頼のすべてを神とイエスにかける、と言ってもいいかもしれません。あなたの信仰があなたを救ったという祝福の言葉を頂いたあと、「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」のです。この道はもちろんイエスのエルサレムへの道、受難と死に向かう道です。バルティマイは「行きなさい」と言われたにもかかわらず、家に帰らずにイエスに従うことを選びました。このバルティマイの姿は、結局のところ財産を頼りにしてイエスに従うことのできなかった金持ちの男や、自分たちの栄誉を求めたヨハネとヤコブ、そして弟子たちの姿とはっきりと対比されています。マルコ福音書はバルティマイの中に「十字架への道を歩むイエスに従う弟子」の典型的な姿を見ていると言えるでしょう。

 神に叫ぶ目の不自由な物乞い、バルティマイが「ダビデの子イエスよ」と叫びをあげました。詩編107編に「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった」(6節)とありますが、バルティマイは「叫び」、イエスは「呼ぶ」。人が憐れみを求めて叫ぶとき、神は呼んでくださる、招いてくださるのです。このような「叫び」は神への信頼を表す叫びであります。「叫び」が信頼となるとき、神は呼びかけ、導き、神ご自身が「道」を示してくださいます。叫びましょう「主イエスよ、憐れんでください」と。きょうから始まる一週間の歩みも主に信頼して歩める日々でありますようにお祈りします。

父と子と聖霊によって。アーメン



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