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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年10月17日(聖霊降臨後第21主日 ) 

弟子たちの取るべき態度

マルコによる福音書10章35-45
 

 

 きょうの福音は、ヤコブとヨハネのイエスに栄光の座に着く時には、私たちをそれぞれ左右に座らせてくださいと、懇願するところから始まります。これは3回目の受難の予告の後の出来事でした。

 3回の受難の予告の後の弟子たちは、どんな態度をとったのかご一緒に確認していきたいと思います。最初の受難予告は、ペトロの信仰告白の後になります。(8:31)。このときペトロはイエスをいさめ、イエスから「私の後ろに退け」と叱られました。そして、イエスは自分の十字架を背負うようにと命じられました。人の思いではなく、神の思いに従うことを求めました。その六日の後、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて、高い山に登って、栄光の姿を見せました。変容貌と言われているところです。それは受難の後に復活の栄光に至ることをイエスは知らせましたが、弟子たちの目は受難から離れ、受難を忘れ、栄光の出来事に心が奪われています。ガリラヤを通って、弟子たちに教えて、「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからです。意味が分かりませんでしたが、怖くて尋ねられなかった。」のです(32)この二度目の受難予告の後でも「誰が一番偉いか」をめぐって弟子たちは論じ合っていました(9: 34)。

 そして、きょうの三度目の受難予告の後でも、ヤコブとヨハネが栄光の座を求めています。

 三度目の予告を見ていきましょう。32節「さて、一行はエルサレムへ上る途上にあった。イエスが先頭に立って行かれるので、弟子たちが驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、私たちはエルサレムへ上っていく。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、鞭打ち、殺す。そして、人の子は三日後に復活する。」受難予告の直後に、それはエルサレムが近づいても( 32節)、弟子たちの誤解は消えないばかりか、むしろ大きくなっていることを示しているのかもしれません。

 イエスが人々に「仕えて」十字架に上ったのは、天の栄光を得るためではありません。イエスは栄光が欲しくて「仕えた」のでもありません。「仕える」ことに意義があるからです。イエスが「仕える」者として苦しみを受けたのは、神がそれをお望みだからです。イエスが人々に「仕えた」のは、すべての人が生きることを願う神の望みを具体的な形にするためでした。

 それなのに、ヤコブとヨハネは「イエスの右と左に座る」栄光を手にしたいと懇願しました。彼らのこの願いには栄光を追い求める人間的な感情も含まれえいるでしょう。イエスの栄光を信じ、誰よりもそのイエスのそばにいたいと願ったと考えることができます。

 38節で苦難を耐えることができるかとイエスは問いました。「私たちはできる」とヤコブとヨハネは誓っています。しかし、二人はエルサレムで待ち受ける運命の厳しさを耐えねばならないと気づいているのでしょうか。彼らは栄光を求めています。

 栄光の座に座るイエスの隣にいることができると保証されるのでなければ、苦難に入っても無駄であると考えます。だから、彼らの視線は苦難を抜かして栄光へと心が奪われてしまいました。

 さらにイエスは、この二人に対して、イエスは38-39節で「私が飲む杯」と「私が受ける洗礼」について述べています。

 ここでの「杯」とか「洗礼」は、神が定めた苛酷な運命の象徴であります。イエスはヤコブとヨハネの視線を栄光の手前の苦難へと引き戻そうとしているのです。イエスは「私が飲む杯」、「私が受ける洗礼」というように、「私」と苦難との結びつきを強調しています。苦しみを避けるならば、イエスに従うことにならないからです。苦難が必ず栄光をもたらすとはかぎりませんが、それは神が決定することです。

 次にイエスは、異邦人の生き方(42節)と人の子の生き方(45節)とを対比させます。異邦人は、すなわち神を知らない人たちは高い地位と権力を目指して生きます。そういう人生観です。しかし、彼らの支配は「支配すると見える」にすぎません。それは見せかけの支配にすぎません、真の支配ではありません。

 人の子の生き方は神の愛に生きることです。神を知った弟子たちの栄光とはイエスと共に十字架を担うことにある、と説いています。

 人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためです。そのきわみが、45節に語られる十字架の死であります。この死は多くの者の代わりの死であり、罪の奴隷状態から私たちを贖う「買い戻し金として」の死であります。

 この対照的な二つの生き方の間に、弟子が取るべき態度について詰め寄ります。だが、弟子は異邦人のようであってはなりません。あなたがたにおいては、偉大さは人を支配する力にではなく、人に仕える謙虚さにあります。異邦人、つまり神に出会っていないひとは、権力を振るうことを栄光と考えます。

 しかし、イエスを知った者は、仕えるという道に従います。なぜなら、イエスは十字架に上ることによって、すべての人に仕えたからである。

 わたしたちもイエスの十字架の愛に励まされて最も小さくされた人々に寄り添い日々の生活が祝福されるように歩んで行きましょう。



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