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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年9月12日(聖霊降臨後第16主日 ) 

ペトロの信仰告白と受難の予告

マルコによる福音書8章27-38

 

 先主日では、イエスが耳が聞こえず口のきけない人を癒しました。

 きょうの福音はイエスが行ってきたしるしから離れて、「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」をします。まず27-30節の「ペトロは信仰を言い表す場面から見ていきましょう」これは、マタイ1613-20、ルカ918-21にも記されています。

 ガリラヤ湖の付近で活動していたイエスは北のフィリポ・カイサリア地方に退きます。これはパレスチナの北部でヨルダン川の水源の近くにあるヘルモン山の南西の山麓にありました。ヘロデ大王の子フィリポスはローマ皇帝ティベリウスに敬意を表して、その街をフィリポ・カイサリアと名付けました。そして地中海沿岸のカイサリアと区別するために自分の名前を冠しました。

 弟子たちの伝える民衆のイエスに対する見方は、基本的には614節以下と同じであります。この弟子たちのイエス観は,民衆のイエス観を背景にしたものでした。これをイエスは弟子たちにも問いかけました。

 「それではあなたがたはわたしを何者というのか」と、するとペトロは答えました。「あなたはメシアです」イエスの復活ののち成立した教会の信仰がペトロの口を通してこのように言い表されました。しかし、受難のイエスへの理解が伴っていないのです。ここにイエスの奇跡を見ても彼の身分を理解できていない弟子たちの姿があります。メシアとは、アラム語ですが、ギリシャ語ではクリストスです。これは油注がれたものを意味する言葉です。元々は、イスラエルの王が即位するとき、油が注がれていました。また、祭司や預言者の場合もありました。油を注がれることによって、神から特別な使命を与えられました。神から遣わされたものとして「救い主」を表すものになりました。イエスは最初の受難の予告をします。31 人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日のうちに復活することになっている、お弟子たちに告げました。

 32節は、受難予告を聞いたペトロの困惑と反発の様子を描いています。「ペトロはそんなことを言えば、だめですよ、と叱りました。

 彼はイエスをメシアと告白しましたが、何も分かっていなかったのです。受難と死を通して復活に至る道を拒否しています。そのペトロに対してイエスの言葉は厳しく迫ります。「サタン、引き下がれ」イエスは自分を十字架への道を阻止しようとするペトロの中にサタンの誘惑を感じ取ります。彼の叱責はひとりペトロだけに向けられたのではなく、他の弟子たちにも向けられています。

 34節 イエスの受難予告を聞いた今「自分の十字架を背負う」は自分に付けられた十字架を刑場まで背負うという慣わしに従うことです。殉教を覚悟でイエスに従うことを意味します。しかし、イエスの受難のとき、弟子たちはここで要求される弟子像とは反対の行動をしてしまいます。それはどうしてそうなったのでしょうか。「ペトロは自分を捨てず、イエスを否認しました。イエスの十字架を背負うのは弟子達ではなく、通りがかりのキレネ人シモンでした。

 わたしたちも受苦日に、「十字架の道行き」の祈りによって、十字架を負うことを祈りの中で追体験しますが、35節「自分の命を救いたいと思う者は」永遠の命を失うが、イエスのため福音のためにそれを失う者、殉教する者は永遠の命を得る。」のです。使徒書の方は、きょうも選びについて記されています「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」きょうのヤコブ書にも、

 人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されますとのべられています。行ないのない信仰はそれだけでは死んだものです。このように行いによって信仰を表すことが求められています。イエス様の十字架への道行きに示されるように、イエスの苦難を担うように、言われましたが、ペトロはイエスを知らないと言いました。イエスの十字架を担うことがどれだけ難しいことなのか思い知らされます。イエスに従うことが自分を愛するように隣人を愛しなさいという戒めは、イエスによって、新しい契約として立てられました。これはイエスに従って、十字架を担うことであり、永遠の命に至る道であるという福音なのです。36-37節 受難のイエスを拒んで永遠の命を放棄するならば、もはやいかなる代価を払っても買い戻すことができない、とマルコの今日の福音は語ります。十字架の贖いは、たった一度の出来事です。

 イエスはわたしたちを世の命から天のみ国に導いてくださいます。38節 イエスが終末の時に審判者として到来する人の子であります。このようにマルコは原始キリスト教会の人々と共に人の子イエスの再臨を述べています。神に背いたこの罪深い時代にわたしと私の言葉を恥じる者は、人の子が父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときその者を恥じると宣言されています。

 人の子としてのイエスが救い主、キリストとして再び来られるということは、神の国お到来を意味します。神から離れているこの世にあってもイエスの言葉を行なう者にとって、主イエスが再び来られるという再臨の期待を抱きつつ、イエスに従って行きたいと思います。



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