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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年9月5日(聖霊降臨後第15主日 ) 

耳の聞こえない人を癒す

マルコによる福音書7章21-37

 

 先主日は、イエスはファリサイ派と「汚れ」について論争しました。その後、マルコ福音書によるとイエスは、ティルス地方から35キロメートルほど北上してフェニキアの港町シドンを通って南東のデカポリス地方の真ん中にあるガリラヤ湖にやってきました。しかし、ガリラヤ湖の真ん中にデカポリスを位置づけることは地理的に不正確であります。マルコの描くイエスの行程には少し無理があるようです。一説によりますとマルコは地理に詳しくなかったともいわれています。ここでの地名はいずれも異邦人の土地ですから、マルコはガリラヤを中心にしたイエスの行動範囲の活動地域を示そうとしていると考えることができます。
 イエスが異邦人の地であるデカポリス地方の湖岸に来たときに人々は「耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきて、この人に手を置いてくださるように」と願われたのです。この当事者の信仰ではなく、連れてきた人たちの信仰によって癒されることが語られています。
 また「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」とあります。イエスによってこの人は選び出されました。
 そして、具体的な癒しの行為が行われます。イエスはここで言葉や身体的な接触で「手を置く」だけで病人を癒すのではなく唾を用います。「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」と記されています。これはいやしの物語として、古代社会に伝わる行為だったそうです。ここで何のことかなと思うのは「エッファタ」「開け」というイエスが発した言葉ではないでしょうか。ここではイエスの言葉がアラム語のまま伝えられているのです。
 この言葉は、聞いていた人々の耳に強烈なインパクトを与える言葉です。世の人々の苦難を一気に背負うイエスの魂の底から発する言葉です。
 イエスは、自分の語りかけが必ずこの人に届くという神への信頼と希望をもって叫びました。奇跡を行なうための精神的な興奮を表しているように思われます。ここでもサタンと闘う時の激しい感情をみることができます。このイエスの神への信頼と希望がこの人に伝わり、この人は変えられていったとも言えるのではないでしょうか。わたしたちは、このようなイエスの力強い叫びにどのように応答できるでしょうか。
 37節で「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」という言葉は、今日読まれました旧約聖書のイザヤ35章5-6節「そのとき 見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」が群衆の語ったことです。これは神の救いが実現する時のありさまを語る預言者イザヤの言葉です。マルコは群集の口をとおして、神の救いのわざが、神の子であるイエスによって実現しているということを伝えようとしているのではないでしょうか。 
 「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた」と言われています。この言葉とは逆にますます評判は広まっていきました。この秘密にするという、考え方はイエスは治癒の奇跡によって魔術師のような人だ、という誤解を避けるためでした。
 ヤコブの手紙には、26節「自分を信心深い者だと思っても,舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに、世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神のみ前に清く汚れのない信心です。」と厳し
く、み言葉を行なう人になりなさい、と勧めています。
 「みなしごや、やもめが困っているときに、世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神のみ前に清く汚れのない信心です。しかし、このように福音が律法にならないかと心配されるヤコブの手紙ですが、わたしたちは、主の恵みに助けられて群衆が語ったように「この方のな
さったことはすべてすばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口のきけない人を話せるようにしてくださる。」という信仰をわたしたちは福音として感謝して賛美したいと思います。
 きょうの特祷は「主よ、どうか主の民に世と肉と悪魔との誘惑に打ち勝つ恵みを与え、清い心とをもって、唯一の神に従うことができますように」と祈りました。わたしたちの近くにいる、小さいサタンの誘惑からわたしたちを退け、守り導いてくださいますように、弱い立場にある人に視点を移して、歩んで行くことができますようにお祈りします
 小さくされた人々や、やもめが困っているときに、世話をし、世の汚れに染まらないように自分に配慮していきたいと思います。



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