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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年8月8日(聖霊降臨後第11主日 ) 

天からのパン

ヨハネによる福音書6章37-51

 

 ヨハネによる福音書6章は、イエスが5つのパンと2匹の魚で大群衆を養った話(先々週読まれた箇所)に始まり、パンについてのイエスと群衆の対話が続きます。先週読まれた箇所は「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35)というイエスの宣言で結ばれていました。

 ヨハネ福音書の書かれたころの二世紀にかかろうとする時代は、ユダヤ人=ユダヤ教徒がイエス・キリストを受け入れないということが現実のものになっていました。ヨハネ福音書には「ユダヤ人」という言葉がたびたび使われていますが、イエスの時代のユダヤ人というよりも、キリストを受け入れないことが決定的になった時代のユダヤ教の人々を指すような表現です。

 この箇所での人々の反応も、ヨハネ福音書が書かれた時代のユダヤ人全般の反応だと考えたらよいでしょう。また、ここでのイエスの言葉は、イエスが語った言葉そのものというよりも、長い年月をかけてイエスの言葉が受け継がれる中で、ユダヤ教に対するキリスト教の反論として使徒的集団が語り受け継がれてきたものであるとみてもよいでしょう。

 ヨハネ福音書の記者は、既に3章から5章にかけてイエスを永遠の命の与え手として描いてきていますが、なぜイエスが命を与えることができるのでしょうかという問いに対して、イエスが命のパン、すなわち神の言、ロゴスであるからという答えを用意しております。

 「パン」は、人の命を生かすものの象徴として用いられています。「天から降ってきた」というのは、人を真に生かすものは天の神から来るということを表しています。37節で聖書の根本的な死生観、永遠の命、復活させるなどの復活信仰が語られています。

 この生命観は、モーセ5書から受け継がれているといわれています。具体には創世記27節の「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」というところに示されています。    

 人は神につながって生きるものであります。神とのつながりを失えば、ただ滅び行くものでしかない、という見方です。神につながることによって、現在を、今を生かされているのです。

 イエスが、天から降ってきたパンである、というとき、ユダヤ人たちは「これはヨセフの息子ではないか、我々はその父も母も知っている。どうして今『わたしは天から降ってきた』などというのか」という問いによって、人間イエスが神と等しい者だと主張すること自体が真に否定すべきものであるとユダヤ人たちは言っているのです。

 しかし、イエスは「父が引き寄せて下さらなければ、だれもわたしのもとへ来ることができない。わたしはその人を終わりの日に復活させる」といいます。ここでもはっきりと未来的終末論が述べられています。

 マルコの場合、終末は今来る、既に来ているという終末論でしたが、それから約30年後には、やがて終末は来るがまだ来ていない、という終末論へ変化していきます。とはいえ終末は、確実に来るというメッセージになっています。

  48節では、そのことをはっきり確認させています。イエスのみが天から降ってきた命のパンなのである、と。そして、モーセとの対照がなされています。「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない」、と。永遠の命のパンであるイエスこそ第2のモーセ以上の存在であることが示されています。

 「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」イエスとイエスを受け入れる者との関係が特別な言葉遣いで示されています。「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」。聖餐との関係でパンの奇跡が理解されるべきことが共観福音書とともにこのヨハネ福音書においても明確にされています。

  「命のパンであるイエスを食べる」とはどういうことでしょうか。それはイエスのもとに来て、イエスを信じることです(35)51節の聖餐式の箇所は次主日のみ言葉へ繋がっていきます。

 イエスが世に遣わされた目的は、わたしたちが終わりの日に復活させることであるとイエスが父のみ心を語っています。「子を見て信じる者が一人も滅びないためであるとはっきりと約束してくださっています。



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