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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年7月4日(聖霊降臨後第6主日 ) 

信じること

マルコによる福音書6章1-6

 

 イエスは、ガリラヤ湖畔を中心に活動していましたが、そこを去って、山地の町、生まれ故郷であるガリラヤのナザレを訪れ、多くの人々に出会います。

 ナザレと言う町は、今では何万人もの人が住む町ですが、イエスの時代には特に大きな町でもなく、名の知れた町でもありませんでした。この小さな村ナザレにも会堂があり、安息日ごとにユダヤ人たちがその会堂に集まって礼拝していました。

 カファルナウムの町や村で病人をいやしていたイエスの評判は、ナザレの人々にも伝わっていたのでしょうか。ナザレの人々の注目は、当然会堂で教えるイエスの言葉ひとつ一つに集まります。

 ルカによる福音書4章にイエスの活動の最初期のものとして、ナザレの会堂で朗読した聖書の言葉が伝えられています。ご存知の通り聖書の朗読というのは、巻物に記されたイザヤ書61書からのものでした、貧しい人への福音というものです。ルカによる福音書の4章18 節以下にはこう記されています。「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、
 主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、
 捕らわれている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由にし、
 主の恵みの年を告げるためである。イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。

 そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められたのでした。

 この言葉がイエスの神の国のメッセージとして語られたのです。ナザレの人々はイエスのメッセージそのものには反対していません。むしろ驚いています。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か「この人は大工ではないか。」故郷のまちナザレでは、カファルナウムで人々に教えていたように行動をしますが、ただ、それを語るのが自分たちの良く知っているイエスであるということにつまずくのです。せっかくイエスの言葉と業に出会いながら彼らは、イエスの背後にある神を見ることができなかったのです。

イエスの人格が拒否されるとき、受け入れない時、奇跡は起こりえないのです。これまで奇跡が行なわれたのは、信仰が前提になっていました。

 ナザレの人々は、イエスの村での立場をよく知っていたので、大工職人ではないか、兄弟もよく知っている、というその見方を超えることができないで、イエスが、預言者として神との活動していることを理解できなかったのではないでしょうか。イエスの身内のことをあまりにも良く知りすぎていたので、ご近所の人たちは、かえってつまづきました。神の子としてのイエスを認めることができなかったのです。

 だからイエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけ」だと言われるのです。また、この人は大工ではないか、という言葉の中に、わたしたちが人を見るときも、やはり、社会的な評価を超えられないことがありそうです。あの人はどういう家の出身で、どんな職業で、どんな資格があって、など、多くの装飾を付けてしまいます。しかし、残念なことにイエスの親族や故郷の人々はこのような目でしか、イエスをみることができないのです。わたしたちは見るべき事柄は、本当にその人の中にある信仰の部分を見出すべきではないではないでしょうか。

 まさに「人々の不信仰に驚かれた」ということは、信仰こそ人間にとって自然な姿だとイエスは考えているからです。その信仰とは、自分の知識や経験からくる価値観に固執することなく、イエスを知ってからイエスの目の前の出来事に率直に身も心も開くことができるのです。

 そのような柔らかな心こそがイエスを通して働く神の言葉に目を向ける力となるのです。

 イエスの故郷の人々はイエスの言葉と業に驚いたにもかかわらず、神の働きを問うことを止めて、自分たちの次元にイエスを引きずり下します。だから彼らは結局、人間的な知り方を越えることができませんでした。これが「故郷の人々がはまった罠」であであり、彼らが躓いたのは古い自分に固執したことでした。イエスが驚く、彼らの不信仰とは、この古い自分を引きずって解き放たれないことです。

 病気のために汚れているとされた人々、悪霊に取りつかれていると言われて見捨てられていた人々、職業によって罪びとのレッテルを貼られてしまっていた人々。イエスはこの人々も神の子であることを、言葉と行動をとおして伝えていきました。ここにも、イエスのメッセージと活動がナザレの人々に受け入れられなかった理由があったのでしょう。

 イエスは故郷を離れ、周りの村々へ神の国を教えながら巡り歩いていきました。わたしたちもことばによって力ある業を行われるイエスに巡り合いながら従っていきたいと思います。



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