header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年6月20日(聖霊降臨後第4主日 ) 

この人はいったい誰なのか

マルコによる福音書4章35-41

 

 マルコによる福音書の435節から826節では、5,000人の供食や海上歩行をはじめとする一連の奇跡物語が語られていますが、これらの奇跡物語がしめくくられる829節では、「あなたはメシアです」と、ペトロの信仰告白が述べられています。この826節の一連の奇跡は、このペトロの信仰告白を導き出すためのものとも言えるでしょう。

 このような文脈からきょうの435-41節を見る時、41節の「いったい、この方はどなたなのだろう」という問いは大きな意味を持ってきます。829節の「あなたはメシアです」というペトロの信仰告白によって、「この人は誰か」と言う問いかけに一つの結論を得るわけです。さらに広くマルコ福音書全体の広い文脈から見るならば、この問いは、イエスの十字架上の死後、「本当に、この人は神の子だった」(1539)といった百人隊長の告白へとつながってゆく重大な問いでもあるのです。

 わたしたち信仰者にとって、「イエスとは誰でしょうか」と問い続けることが日々の生活のあり方を問うものです。

 35節から見ていきますと、「その日」とは、湖畔にいる群衆に舟から教えを説いた日のことであります。舟の中が強調されているのは、この「舟」に特別な意味合いを込めたいからだということができます。夕方、イエスと弟子たちは舟で向こう岸に漕ぎ出します。この舟は41節以下で、イエスが腰をおろして教えを説いた舟であります。マルコは36節で「イエスを舟に乗せたまま」というのは、舟が湖を渡る交通手段であるだけでなく、この世を渡る教会を表す象徴でもあります。教会の歩みは、湖を向こう岸へと漕ぎ出す船路のように、途中で嵐に遭遇するかもしれません。イエスは神への信頼に基づいて、「私たちは渡ろう」と弟子たちに呼びかけます。

 福音書ではすべて「小舟」、小舟はガリラヤ湖上の小さな漁船を表わします。「舟」で網の手入れをしていたゼベタイの子ヤコブとヨハネは、イエスに呼ばれると、「舟」を残して、すなわち生活の手段を捨てて、イエスに従いました。

 ガリラヤ地方を宣教するイエスや弟子にとって、舟は欠かせない移動手段でありますが、単なる移動手段では終らず、湖畔の群衆に教えるイエスが腰を下ろす場所であり、弟子がイエスのしるしを体験する舞台でもあったのです。つまり、群衆に教えを説く説教台の役割を果たした舟でした。世に宣教し、世を渡って行く教会を表す象徴となっています。

 マルコは37節で、激しい突風のために舟が波をかぶり水浸しになるほどだった、と記していますが、これは世の荒波をかぶる教会の象徴でもあります。イエスは風を叱り、波をおさめることによって、世にある教会が信頼すべき方が誰であるかを示しています。そこへ突風が生じ、波が襲いかかります。それにも関わらずイエスは枕をして眠っています。神に信頼を置くイエスは、嵐の時も平安の内にありました。これに対して、弟子たちは狼狽して、イエスに「私たちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えます。「私たち」という同じグループの中にいることがかえって、神にすべてをゆだねて眠るイエスと、神を信頼しきれずに狼狽する弟子たちとの対比を浮き彫りにしています。

 詩編107編に荒れ狂う水を治める(詩1079-30)ことができるのは神だけであると記されています。イエスは起き上がって風を然り、湖に「黙れ,静まれ」と言われました。すると風は止み,すっかり凪になりました。ここにイエスを通してその神の力が働いていることをみることができます。波や風は力を失い、「静けさ」が戻りました。海と神の働きのできごとを私たちは、モーセの出エジプトの時に海を二つに裂き、紅海を渡る、という出来事を想い起します。イスラエルの民は事あるごとにこの出エジプトの神の導きと祝福を想い起こしていました。

 このようなイエスの行動のバックボーンとして神への信頼があります。イエスは神を信頼しているから、水浸しになった舟の中でも眠っていますが、風を叱って静めることができるのです。イエスは弟子たちに、「なぜ恐がるのか」、「まだ信じないのか」と叱りますが、ここでイエスと弟子の違いが明らかにしています。弟子たちの狼狽は神に委ねきれない臆病さから生じ、イエスの静けさと権威は、神に信頼する信仰に根ざしています。荒れ狂う波を静めたのはイエス自身であるというより、むしろイエスの信頼に応えて働く神であります。イエスは「なぜ怖がるのか、信じないのか」と叱ることによって、彼が身をもって示した神への信頼を呼びかけているのです。荒れ狂う波風を一言で静めたイエスを前にした弟子たちは、恐れに捕らわれながらも「このかたはどのような方か」と問い始めるのです。「この人はどういう方か」という問いを発し続けながらイエスに従っていきます。そして嵐の中でもイエスの神に信頼して行く姿勢に倣うのです。イエスを通して、神の力を信じ、恐怖心が神を畏れ、畏敬の念を抱きつつ、この方はどなたですか、と問い続けることがきょうのメッセージに込められています。この不信仰と臆病は、当時の教会において信徒が克すべき課題でありました。 わたしたちの信仰のあり方も「この方はどのような方であろうか」と、問い続けることによって、十字架にかかり、甦られたイエスと出会い、イエスがともにいてくださることによって、わたしたちのうちにある恐怖を克服していきましょう。そして安らかな心をイエスを通して頂いていきましょう



このページトップ」へ戻る