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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年6月13日(聖霊降臨後第3主日 ) 

み言葉の種 神の国のたとえ

マルコによる福音書4章26-34

 

 41節から種まきの譬えが始まります。良い土地に落ちた種の話です。 4章34節では、たとえ話は弟子たちには、すべて特別な説明がなされているように言われています。11節にも譬えについて語る理由についてこうありました。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人には、すべてが譬えで示される。それは、『かれらが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして立ちかえって赦されることがない』ようになるためである。」

 神の国は「たとえで」しか語ることができないのは、それが人間の理解を超えた現実だからでしょう。イエスは人知を超えた神の国を説明するためには譬えを使わざるを得ないのです。土の畑は人です。種まく人はイエスとその弟子たちです。種は土の状態によって、その成長と実りの結果から違ってきます。神の言葉も聞く人のこころのあり方によって、その聞いた結果がかわってきます。

 神の言葉に心を開くならば、譬えが示している神の国を生き生きと捉えることができます。しかし、自分の既成の考え方に捕らわれて、神の言葉への敏感さを欠くなら、たとえは不可解なものに終ります。そこで「彼らが聞く力に応じて、このように多くのたとえでみ言葉を語られた」と述べています。

 それを受けて、わたしたちは柔軟な姿勢で神の国についての「種まき」と「からし種」のたとえをご一緒にみていきましょう。

 きょうの26節の成長する種のたとえは、「神の国は次のようなものである」で始まり、30節で「神の国をなににたとえようか」という神の国の何らかの特徴をあらわしています。この二つのたとえによって、神の国がどのような現実性をもっているか、人は種をまいた後は、寝起きを繰り返すだけで、知らない間に種は成長するので、人は関わっていないということが述べられています。

 29節では、人間はどのように実が熟すのかを知らないのに、その収穫にあずかっています。収穫の時が必ずくるように、神の国は必ず豊かな実りをもたらします。人間の理解を越えた仕方で成長していきます。

 きょうの「神の国についてのたとえ」が、ヨエル書413節「鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した」という記述を踏まえた、終末を示す語として使われています。神の国は人間の努力と無関係に「おのずと」成長するのです。今は目立たなくても、今すでに始まっています神の国の完成に向けて、困難ななかでも神の力に信頼し、今を力強く生きることです。

 後半の32節の「からし種」の譬えで「地上のどんな種よりも小さいが」という言い方によって他の者との対比を強調しています。イエスの活動は目立たない小さい形で始まった神の支配がやがて世界大の規模に成長するという確信を現わしています。

 神の国はからし種の変化におこる譬えられています。神の国の最初は、無に等しいですが、やがて1メートルから3メートルの大きなものへと成長し、葉の陰の下に鳥が住むようになります。

  神の国の秘密は、今は小さなからし種のように世界から隠されていて見えませんが、やがて、大きく広がり世界に明らかにされるのです。

 神の国(支配)は人間の努力がなくても「おのずと」完成に向って成長し、「空の鳥」が巣を作って住むほどに大きなものとなります。

 作物が成長するのは目に見えて分かります。新芽が出て、次に穂が出て、穂先に実をつける。しかしそれがどのようにして、成長するか、分からない。神の働きは、分からないのです。信仰の目によってしかそれは分かりません。それは神の力によって成長する。それを人は、自然にほっておけば、成長するのです。

 しかし、「どうしてそうなるのか」は分からず、まさに「おのずと」、勝手に育つかのように見えます。もちろん、ここでの「おのずと」の背後では神が働いています。しかし、神の働きは「目に見えるものによらず、信仰によって」認知されるのです。従って、人の目にとっては、「おのずと」と映ることになります。

 わたしたちキリスト者はそこに神の力、神の働きがあることを信じます。

 イエスはたとえによって、目に見える現実の奧に、確かに始まっている神の国の現実を指し示しています。からし種のような今は取るに足らないように見える現状の中にも、そこには神の力が働いています。それは成長して、やがて全世界を包み込むように豊かな実りをもたらします。わたしたちは信頼すべきは、自分の力ではなく、信仰の眼でみます。肉の目には見えなくても、霊的な目によって何よりも力強い神の働きがそこにあることに気づきます。二つのたとえを見てきましたが、共に神への信頼を呼びかけています。農夫は種の成長の秘密を知らないし、刈り入れの時を思うままに変えることもできないのです。けれども、不安に脅えることも、思い煩うこともありません。実りを信頼して、農夫は農作業を続けていきます。神の国も同様であります。それは目にも見えず、日時の設定もできません。しかし、確実に近づいています。神の国をもたらすのは、人の働きではなく、神の働きだからです。農夫を見れば、誰に信頼をおくべきかを理解することができます。イエスのたとえ話を今のわたしたちの現実の中に置きなおして、神の力に信頼し、困難に出会ったとしても、今を力強く生きるべきであります。その先には神の国に入ることができるというそのような励ましや希望を持つことができるのです。



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