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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年2月21日(大斎節第1主日 ) 

試みを受ける

マルコによる福音書1章9-13

 大斎節は主イエスの復活日の準備の季節です。聖公会の大斎の意味は断食を意味しますが、カトリック教会では「四旬節」と言われています。この言葉は「40日間」を意味します。復活日までの主日を除く40日間が断食の期間とされましたので、灰の水曜日が四旬での始まりの日になりました。

 きょうの福音は2つの部分からなっています。イエスの洗礼を受ける部分(9-12)と、イエスの活動開始に先立つ荒れ野での誘惑(12-13)です。

 大斎節第1主日には四旬節の原型となった40日の荒れ野でのサタンの誘惑の場面が選ばれています。マタイやルカは誘惑の内容を伝えますがマルコは簡潔に描かれています。

 イエスを荒れ野に送り出すのは、「霊」です。この霊は110節で「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて「霊」が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」と描かれています。この洗礼のとき以来、一貫してイエスの行動を導くのは神の霊になります。

 洗礼は罪から離れて、神に心を向けることです。ギリシャ語の「メタノイア」とはただ単に過去の過ちを後悔し、自分の罪深さを思うだけではありません。むしろ、神に心を向け直すことです。罪から180度回転し、心を回すことです。 主の死と復活を記念する大斎節・復活節のはじめに、わたしたちの生き方がどこを向いているかが問われています。

 灰の水曜日の式文には、「あなたはちりであるから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい」と記されています。これは、「エデンの園の木の果実」を取って食べたアダムとエバに言われた神様のみ言葉です。アダムとエバが「エデンの木の果実」を取って食べたことは蛇の誘惑のせいでした。しかしこの蛇の誘惑は人間の欲望を引き出しています。すなわち、人間が自分の欲望を満たすために神様のみ言葉に背いたのです。エデンの園から追い出されたことも、自分の欲望を満たすために、エデンの園で生きて行くことができなくなったのです。  現代の格差社会の問題も結局この欲望の問題です。エデンの園の出来事が、今日も続いている出来事です。ですから私たちは、アダムとエバを責められた神様のみ言葉を通して、私たちの犯した過ちを省みる期間でもあるのです。

 サタンの誘惑とは、何でしょうか。サタンは人を神から引き離す力と考えればよいでしょう。「誘惑」と訳された言葉には「誘う」と「試す」の両方の意味がありますが、ここでは「神から離れるように誘うこと」です。

 私たちキリスト者の立場からすれば、神から引き離そうとするサタンの誘惑と闘うことです。しかし、今、聖公会とカトリック教会で唱えられている主の祈りでは「わたしたちを誘惑に陥らせず」となっていて、「誘惑があってもそこに陥ることのないように守ってください」と理解して、祈っています。誘惑に勝てないことが前提になっているようです。だから誘惑に陥らないように守ってください、と祈るのです。

 イエスは、サタンから誘惑を受けられた時、その間、野獣と共におられましたが、天使が仕えていました。

 ここでは危険がまだ続いています。しかし、その中でも天使に象徴される神の確かな保護がある、というのです。なぜならば、十字架に至るまでイエスは神に従い、悪と戦い、神によって復活させられたからです。

 詩編913節からでは野獣と天使が同時に顕れます。

 このイメージはまた、困難や危険に満ちたわたしたちの現実にもあてはまるのではないでしょうか。聖公会の祈祷書訳は「3狩人のわな、滅びの疫病から‖ 神はあなたを救われる 4 神はその羽であなたを覆い、翼(つばさ)のもとにあなたは逃れる‖ 神のまことは大盾、小盾 11 神があなたのためにみ使いに命じ‖ あなたの進むすべての道を守られる 12 石に足を打ちつけないように‖ 神のみ使いは手であなたを支える 13 あなたはししとまむしを踏みつけ‖ 若じしとへびを踏みにじる 14 「わたしに頼る者をわたしは救い‖ わたしを知っている者をわたしは守る」 15 呼び求める者にわたしはこたえ‖ 悩みのときともにいて、救いと誉れを与えよう

 

 それで初代教会は日常生活を続けながら荒野を体験することができる方法を整えました。それがまさに断食と節制、お祈りと善い行いです。善行を行なうのは、貧しい人への施しを指します。

 祈るときは、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」なさいです。ユダヤ人は通常、神殿や会堂で立って手を挙げ、人前で祈っていました。ひざまずいたり、地面にひれ伏したりして祈ることもあり、人に見られるために祈るのは間違っていると、イエスは言いました。

 断食をする時、ご自分の都合によって選んで実践してください。無理しないで、他人を意識しないでください。断食と善い行いとお祈りを形式的にするとか、他人に見せるためにはするなと記されています。信仰者の人生は他人に見せるためではありません。信仰者の人生は、「真理の言葉、神の力によって」生きて行く人生です。このように節制の中で大斎節を過ごしましょう。



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