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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年1月24日(顕現後第3主日 ) 

イエスに見出され、弟子となる

マルコによる福音書1章14-20

 

 教会歴では、主イエス洗礼の日にイエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊に満たされ、神の「愛する子」と宣言されました(マルコ19-11)。そして荒れ野で悪魔の誘惑を退けた(112-13)のち、きょうの箇所から神の子としての活動が始まっていきます。

 きょうは、イエスの活動のはじめである神の国の福音と漁師の召命についてご一緒に学んでいきたいと思います。

 きょうの福音は「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き」と記されています。マルコは洗礼者ヨハネが、ユダヤの荒れ野で活動していた時期とイエスの活動の時期をはっきり区別しようとしているようです。

 ここで洗礼者ヨハネの役割は終わり、マルコ福音書での洗礼者ヨハネに関する記述がここで終わります。洗礼者ヨハネの活動につきましては、ルカによる福音書に伝えられています。

 マルコでは、イエスの活動について、のべられています。イエスが神の福音を宣べ伝える活動の場として選んだのは、エルサレムの都から離れたガリラヤでした。そして、そガリラヤからその周辺地域に福音宣教の場を拡大していきます。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と第一声を放ちます。

 時は満ちるとは、どういう意味でしょうか? 一定の期間が満ちることですが、「試練の時・実りの時」のように時の節々を満たす出来事であります。ここでは、「時」の計画の中で定められている終末の救いの「時」として使われています。その「時」までに経過する期間が満ちたということになります。神の国とは、神が王として支配するときが来ているのです。

 神の国は、「王としての支配」「王が治める土地」の意味で用いられています。 当時の、イエスの時代のユダヤ人は、ローマ帝国がユダヤを支配し、その圧政に苦しみ神の国を待ち望んでいますが、神は応答してくれないという状況にありました。そんな中で、ユダヤの人々は、神の国の実現をますます終末論的に考えるようにいたようです。

「時」が満ちた、とイエスは、悔い改めて,福音を、すなわちイエスを信じることを人間に求め続けています。「悔改める」は、もとの意味は「心を変える」「心を回す」180度向きを変えることです。単なる反省ではありません。この悔い改めは、旧約聖書では出てきませんが、全存在をもって神に帰り、神に服従することを意味するとされています。それはきょう聞いた旧約のエレミヤ書322節、41節を見ていただきますと、「立ち返れ」という言葉が出てきます。そうすれば、再び迷い出ることはない、と預言されています。旧約では6か所しかこの「立ち返る」は出てこないそうです。従って「立ち返る」同様に、悔い改めて「福音を」を信じること。すなわち神の国の到来に「全存在をかけて神に信頼をすこと、自分自身のすべてを神に委ねることです。

 イエスはガリラヤ湖畔のほとりをさらに北へ下っていきます、とシモンとその兄弟アンデレが網を打っているのをご覧になった、とあります。イエスは彼らを見たのです。二人は、イエスに見初められたのです。「わたしについてきなさい」という言葉だけで二人は後についていきました。少し北へ進んでいくとゼベダイの子ヤコブとヨハネを見た、のです、「彼らが舟の中で、網を續っているのを、そして、ふたりは、「雇人と一緒に、彼らの父、舟に捨てて、」イエスの後についていきました。

 舟を捨てることは、職業も捨てることです。それこそ無謀にもどうなるか先の展望を考えることなく、イエスについて行ったのです。これが「私についてきなさい」に対する彼らの応答だったのです。

 エレミヤ書41-2節に「立ち帰れ、イスラエルよ」と 主は言われる。 「わたしのもとに立ち帰れ」。 呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。 そうすれば、再び迷い出ることはない。」 2 もし、あなたが真実と公平と正義をもって「主は生きておられる」誓うなら諸国の民は、あなたを通して祝福を受けあなたを誇りとする。」

と伝えています。

 ルカ福音書は、イエスの言葉を聞き、そのなさった業を見てからイエスに従った、という話を伝えています(ルカ51-11)ので、偉い先生だから従ったという理由付けが成り立ちますが、マルコ福音書では、イエスに見初められ、すぐに弟子になります。

 イエスによって、選ばれ、召し出されたのでした。あこがれの先生に弟子入りをお願いするのが普通ですが、イエスの方が弟子を選んでいます。先主日のナタナエルもイエスに見つけられ、イエスを信じる人に変えられました。私たちは信仰生活に入るとき、わたしたちの判断で選んだと思うでしょう。確かにそういう側面も否定できませんが、しかし、同時に、それよりも前にイエスの方が「私」を見て、招いてくださっているのです。神の選びは、優れているから選んでくださったのではありません。選びの判断は神のみ心にあります。神はすべての人を救うために弱い、普通の人を選ばれたのです。主イエスによって捕らえられ、普通の人が聖霊に満たされ変えられていったのです。わたしたちの現在の教会において普通の人が群れの中から召し出され伝道者として立てられます。神様から遠く離れ、逆の道を歩んでいたわたしたちのために、十字架にかかり、神様の方へ、方向転換させてくださったイエス様が、今日も友よ,帰れ、わたしについてきなさいとのべておられます。わたしたちに道を示してくださっています。既にイエスの時が来ているのです。わたしたちにとって困難な生活の状況に置かれているときにこそ、イエスが共にいてくださいます。イエス様、助けてください、あなたを仰ぎ見る力を与えてください。主にある喜びの中を歩むことができますように、力強く、賛美しながら歩むことができますように祈りましょう。 



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