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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年1月10日(顕現後第1主日 ) 

主イエスの洗礼

マルコによる福音書1章7-11

 

 マルコでは、イエス誕生の記録は、ありません。水曜日に主の顕現を祝ったばかりですが、教会歴では、4日でいきなり30年ほどの年月が経過したことになります。今日は主イエスの洗礼のできごとを記念してお祝いし、礼拝する日になります。洗礼者ヨハネの洗礼は、原語では動詞形でバプチゾー、水の中に沈む、浸すという意味です。そして、死んで、水から上がることによって、新しい命に生きることになります。洗礼者ヨハネの行う浸礼は、悔い改めて、罪の中に生きる古い自分に死んで、新しい人になり生きることでした。

 それならば、罪のないイエスがなぜ、悔い改めの洗礼を受けるのでしょうか?

 マタイ福音書314節には、「ところが、ヨハネは、それを思い止まらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから浸礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』それにたいして、イエスは『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです』」と記しています。

 イエスは、「我々にふさわしいことです」と、悔い改めるすべての人と同じように、「罪のゆるしのための悔い改めの浸礼」を受けられました。

 神の子でありながら人として、肉の体になられたので、多くの人と悲しみも苦しみも喜びも、人間の生きてる限り起こりうることのすべてを共有するためでした。そして、主イエス浸礼の場面ですが、10節からの記述では「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、「霊」が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。とイエスご自身がそれを見たのです。そして「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者』という声が聞こえた。」、これもイエスご自身がお聞きになりました。とマルコは述べています。他の福音書のように証言者になる第三者を登場させていないのがマルコの特徴と言えるでしょう。

 洗礼については、日本聖公会の教会問答で、「洗礼とは何ですか」という問いに「答え、聖霊の働きによって、わたしたちがキリストの死と復活にあずかり、新しく生まれるための聖奠です。」と述べられています。

 最初期のキリスト教の洗礼は、使徒言行録238節によると、「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい.めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。』と記されています。このほかにもイエスの名によって洗礼を受けている箇所があります。パウロがエフェソの教会を訪れたとき、そこにはアポロの伝道によって洗礼を受けた信徒たちがいました。パウロは彼らに「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」というと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか聞いたことがありません」と答えました。パウロはさらに「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と問います。すると彼らは「ヨハネの洗礼です。」と答えました。そこでパウロは言いました。

 ヨハネの洗礼は、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。人々はこれを聞いて、イエスの名による洗礼を受けました。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言したりした。(使徒言行録19:1-7)とあります。彼らは本当のキリスト者になったのです。ローマ書64節に「わたしたちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ6:4)わたしたちは、罪に死にキリストに生きるために洗礼を受けました。

 キリスト教では、その後三位一体の教理の確立によって、キリスト教の洗礼は「父と子と聖霊」の名によって授けられるようになりました。また、聖公会では「父と子と聖霊の聖名によって」授けられたものであるならば、他教派の洗礼も有効とされています。

 わたしたちは、洗礼を受けても罪を犯します。日常は懺悔の連続です。だから日々罪を悔い改めて、新たにされることです。祈祷書の朝夕の礼拝では、罪を悔い改めましょうと懺悔から礼拝に導かれて行きます。

 特祷で祈りましたように、「聖霊を注ぎ、愛する子と宣言されました。どうかみ名によって、洗礼を受けたすべての者が、その約束を守り、み子を主、またまた救い主として、大胆に告白することができますように、」と祈りました。いついかなる時でも、というのは、迫害の中にあるときも、「イエスを救い主」として告白することです。わたしたちは、この日本社会では少数派ですので、人の目が気になります。変な宗教と言うレッテル貼りもあるでしょう。ひそひそ話の中に仲間外れにされることもあるでしょう。イエス様が受洗のあと、公生涯に入られて、人々に喜びと希望を与えられる生涯に入られました。そのご生涯に倣うならば、特に、貧しい人や虐げられているすべての人に寄り添われ、わたしたちに生き方の模範を残されました。イエスの喜びと希望、悲しみと苦しみは、弟子であるわたしたちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもあるのです。

 この現在の不安な時代でも、主がともにいてくださる、ということを常に覚えて、この世界を暗闇だと悲観するのではなく、喜びと希望の日々へと変えていきましょう。イエス様が共に歩んでくださいます。わたしたちの教会のこの一年が、本当の意味で、恐れるな、わたしがあなたと共にいるという、み言葉に励まされて、喜びと希望の光を輝かす年になりますように。父とこと聖霊のみ名によって、アーメン。



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