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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2021年1月3日(降誕後第2主日 ) 

ナザレに暮らす

マタイによる福音書2章13-15、19-23

 

 クリスマスの最後の日が、教会歴で顕現日と呼ばれる祝日です。顕現日は、ギリシャ語でエピファニーと言い、「輝き出る」という意味があります。キリストの出現により、神の栄光が世界に現されたことを祝う日です。この日は、東方の占星術の学者たちがキリストを礼拝した日としても祝われます。

 マタイによる福音書の2章の前半には、東方の占星術の学者たちは、星に導かれ、幼子の場所を探し当てました。家に入ってみると、幼子が母マリアと共におられた。そこで、彼らはひれ伏して拝みました。

 きょうの福音は、東方から来た占星術の学者たちが、ヘロデのところへ帰るなと夢でお告げがあったので、別の道を通って自分の国へ帰って行った後の話になります。

 学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れ、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と告げました。

   ヨセフは、起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいました。これは主なる神が預言者ホセア(11:1)を通して言われた、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と言う預言が実現するためであった、とマタイは記しています。

 幼子イエスをモーセのような人物として描いているふしもあります。イエスはヘロデ王の幼児殺害命令を逃れましたが、モーセもエジプト王ファラオのヘブライ人幼児殺害命令から逃れています(出一 22以下)。

 ユダヤ人の間には、申命記18 15節に基づいて「モーセのような預言者がやってくる、それがメシアだ」という考えがあったからです(使3: 22、3: 37)。 この物語がエジプトに言及するのは、単にヘロデ大王の力が及ばない避難先を告げるためではありません。モーセに導かれたイスラエルの民の「出エジプト」を思い起こさせ、イエスによる新しい「出エジプト」に目を開かさせるためです。

 神の救いのみ業が、預言者が語ったことが、今イエスによって成されるということです。イエスは、罪の赦しを与え、永遠の命を与えるという神様の救いのみ業が成されるということです。

 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言いました。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来ました。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れました。

  ヘロデ王(在位:紀元前39年〜4年)は紀元前4年に死んでいます。69歳で死んだとされています。ヘロデの死後、ローマ皇帝はパレスチナ全体を三つに分割して、ヘロデの三人の息子たちに分割統治させました。アルケラオにはユダヤ・イドマヤ・サマリヤの領主としました。

  ユダヤの領主となったアルケラオは暴君で、残酷な統治をしたため、在位10年にしてガリアに追放されます。ヘロデ大王の孫にあたるアグリッパ一世がユダヤだけでなくヘロデ王時代の支配地を任され、統治します。アグリッパ一世の死後は、ユダヤはローマ総督の直轄下になりました。

   ヨセフ一家はイスラエルに戻ろうとしたのですが、夢でお告げがあり、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住みました。マタイは、「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」、と記しています。

 イエスはエジプトからナザレに戻りましたが、それも神の御心であったと告げているのです。イザヤ書1112節「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」との預言です。つまり、「ナザレの人と呼ばれる」とは、「若枝と呼ばれる」ということを指していると考えられます。イエスはユダヤ人たちから「ナザレ人」と呼ばれました。また、ナザレ人とは、ヘブライ語のナジルに関係するとも言われています。ナジルとは、サムソンやサムエルのように、誓願によって神に献げられた聖なる者を指します。だからイエスは、母の胎にいる時から、神に仕えるために、選ばれた聖なる「ナジル人」と呼ばれたことになります。

 イザヤ書53章に見られるように預言者たちは、人々に侮られる苦難の主の僕メシアを預言しました。マタイは、イエスがナザレに住まわれた事実の中に、預言者たちの「僕としてのメシア」の成就を見たものとも思われます。

 主イエスは、実に暗い闇の世界に誕生しました。まことの光であるイエスは、闇の中に来られたのです。その闇は、人間の罪が作り出す闇です。この闇は、今もこの世界を覆っています。私たちもこの闇の中で嘆き、不安と恐れに支配されそうになってしまいます。マタイ4章で「暗闇に住む民は大いなる光を見た、死の地、死の陰に住む人々に光が昇った」(マタイ4:16)と「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」(イザヤ601)とイザヤが預言したように、主イエスは闇を照らすまことの光として来られました。これがイエスの降誕によって確かなものとなったのです。 降臨節の初めからイザヤ書435節の「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」が中心聖句として語られてきました。天使がマリアに告げたとき「恐れるな、マリア主は、あなたと共におられる」降誕日もこの子はインマヌエルと呼ばれるというみ言葉でした。時節がらわたしたちの励ましになると思いますので、今年の聖句は「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」を標語として歩んで行きましょう。



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