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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年12月20日(降臨節第4主日 ) 

マリアへの受胎告知ー喜びと希望へ

ルカによる福音書1章26-38

 

 降臨節第4主日は、ルカ福音書1章のイエスの誕生の前の「受胎告知」の場面です。イエスを身ごもったマリアという一人の女性の中に、神の救いの働きが始まります。

 きょうは、旧約聖書の日課から神がダビデの子孫を王とし、その王国の永遠の支配を約束するというサムエル記下712節以下に記された預言から見ていきましょう。当時のユダヤ人には、これらの預言が終末のメシアの到来を約束する神の言葉と考えられていました。それによりますと「 12あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、 その王国を揺るぎないものとする。 13この者がわたしの名のために家を建て、わたしは 彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。 14わたしは彼の父となり、彼はわたしの子と なる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。 15わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。 16あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手 にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」と預言されていました。

 きょうの福音は、28節は天使ガブリエルは、乙女マリアのところに遣わされました。そこで彼は家に入るといいました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」新共同訳が「おめでとう」と訳していますギリシア語の「カイレ」の本来の意味は「喜べ」です。祝福の意味を込めたあいさつの言葉として用いられていました。ついでの「アヴェ」は「カイレ」のラテン語訳です。直訳すれば「喜べ、恵まれた女、主があなたと共に」となります。これを旧約の預言との関連を考えると、「カイレ」は単なるあいさつではなく、旧約に預言され、民が久しく待ち望んでいた神の救いが、今、実現している、という喜べなのです。また、「主があなたと共に」は、モーセやエレミヤなどの預言者たちが召命を受ける場面では、神ご自身が「わたしはあなたと共にいる」と約束しています(出エジプト記312節、エレミヤ18)。弱い只の人が神の救いの器として選ばれるときに与えられる神の助けを表す言葉です。同様に、ここでもマリアに特別な使命が与えられることが示されています。

 マリアは天使の「喜べ」という言葉に戸惑い、考え込みました。「この挨拶はどんな類であるか」と問い、どのような意味があるのかとマリアは考え続けました。

 「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。その子は、偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる」高齢のエリサベトが子どもを身ごもったのも神の働きですが、男を知らないマリアが身ごもることはまったく人間の力を越えた神の力によるものです。救い主イエスの到来は人間の力によるのではなく、「いと高き方の力」=「聖霊」 (35)によってもたらされる神の恵みなのです。

 マリアは、天使の告げる言葉の意味を理解できなくても、その意味を問い続けることによって、マリアは次第に天使の言葉が現実ものになるとお思い始めていきました。考え込むことを止めたマリアは、「どうしてこんなことがありえましょうか」と直接天使に問いかけました。

 「この挨拶はどんな類であるか」と問う際に持っていた「希望」は、子どもの誕生を告げる天使の言葉を聞き、しだいに強くなっていきます。

 自分の現実の姿を見つめながらそのような力は自分ではないことを知っているマリアは、神の言葉に心を向けていきます。マリアは問い続けますが、もはや問い続ける行為は自分の内面に留まらず、天使へと向けられました。答えは自分自身ではなく、神にあることに気づいたからです。

 「わたしは、主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」というマリアの答えは、神の言葉への信頼を示しています。何と謙虚な信仰なのでしょう。マリアも主のはしためとして神の憐れみを待つことを告白します。

 神の憐れみは、永遠に支配する王としてイエスを人々に与えられたのです。マリアは自分が身ごもる子どもによって、神と民に仕える王の支配、終わることのない支配が来ることを信じて待つのです。

 自分の理解を超える言葉を与えられたマリアは、天使の言葉は「どんな類か」と自問することから始め、「どうして」と言いながら、その言葉の意味する可能性はどこから来るかを問いました。何度も思いめぐらして、問い続けることを通して、神の言葉が現実になることへの希望と喜びを語る者に変えられました。  

 マリアは「神から恵みを受けた方」と呼ばれました。天使の言葉に対するマリアの応答を通して分かることは、神の恵みを受けて生きるとは、迷うことなく信じることではないということであります。むしろ、恵みを受けた者は、今は理解できない神の言葉の意味を問い続けることです。問うことは、いつか神の言葉の本当の意味を知ると信じることであります。その意味が明らかにされるという希望を持ち続けることです。

 まさにイエスの誕生は、この神の言葉を成就させました。ザカリアが賛歌で歌うように、イエスの誕生は神が救いの角を起こされたことのしるしであります。「我らのために救いの角を、 僕ダビデの家から起こされた。 昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに」(ルカ1: 69- 70)。

 神は手を差し伸べています。しかし、人の世はそれを無視しています。しかし、マリアは神に応答して、自分の手を差し出ました。わたしたちは神の差し出されている手にどのように応答するのでしょうか。

 降臨節第4主日は、ルカ福音書1章のイエスの誕生の前の「受胎告知」の場面です。イエスを身ごもったマリアという一人の女性の中に、神の救いの働きが始まります。

 きょうは、旧約聖書の日課から神がダビデの子孫を王とし、その王国の永遠の支配を約束するというサムエル記下712節以下に記された預言から見ていきましょう。当時のユダヤ人には、これらの預言が終末のメシアの到来を約束する神の言葉と考えられていました。それによりますと「 12あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、 その王国を揺るぎないものとする。 13この者がわたしの名のために家を建て、わたしは 彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。 14わたしは彼の父となり、彼はわたしの子と なる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。 15わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。 16あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手 にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」と預言されていました。

 きょうの福音は、28節は天使ガブリエルは、乙女マリアのところに遣わされました。そこで彼は家に入るといいました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」新共同訳が「おめでとう」と訳していますギリシア語の「カイレ」の本来の意味は「喜べ」です。祝福の意味を込めたあいさつの言葉として用いられていました。ついでの「アヴェ」は「カイレ」のラテン語訳です。直訳すれば「喜べ、恵まれた女、主があなたと共に」となります。これを旧約の預言との関連を考えると、「カイレ」は単なるあいさつではなく、旧約に預言され、民が久しく待ち望んでいた神の救いが、今、実現している、という喜べなのです。また、「主があなたと共に」は、モーセやエレミヤなどの預言者たちが召命を受ける場面では、神ご自身が「わたしはあなたと共にいる」と約束しています(出エジプト記312節、エレミヤ18)。弱い只の人が神の救いの器として選ばれるときに与えられる神の助けを表す言葉です。同様に、ここでもマリアに特別な使命が与えられることが示されています。

 マリアは天使の「喜べ」という言葉に戸惑い、考え込みました。「この挨拶はどんな類であるか」と問い、どのような意味があるのかとマリアは考え続けました。

 「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。その子は、偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる」高齢のエリサベトが子どもを身ごもったのも神の働きですが、男を知らないマリアが身ごもることはまったく人間の力を越えた神の力によるものです。救い主イエスの到来は人間の力によるのではなく、「いと高き方の力」=「聖霊」 (35)によってもたらされる神の恵みなのです。

 マリアは、天使の告げる言葉の意味を理解できなくても、その意味を問い続けることによって、マリアは次第に天使の言葉が現実ものになるとお思い始めていきました。考え込むことを止めたマリアは、「どうしてこんなことがありえましょうか」と直接天使に問いかけました。

 「この挨拶はどんな類であるか」と問う際に持っていた「希望」は、子どもの誕生を告げる天使の言葉を聞き、しだいに強くなっていきます。

 自分の現実の姿を見つめながらそのような力は自分ではないことを知っているマリアは、神の言葉に心を向けていきます。マリアは問い続けますが、もはや問い続ける行為は自分の内面に留まらず、天使へと向けられました。答えは自分自身ではなく、神にあることに気づいたからです。

 「わたしは、主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」というマリアの答えは、神の言葉への信頼を示しています。何と謙虚な信仰なのでしょう。マリアも主のはしためとして神の憐れみを待つことを告白します。

 神の憐れみは、永遠に支配する王としてイエスを人々に与えられたのです。マリアは自分が身ごもる子どもによって、神と民に仕える王の支配、終わることのない支配が来ることを信じて待つのです。

 自分の理解を超える言葉を与えられたマリアは、天使の言葉は「どんな類か」と自問することから始め、「どうして」と言いながら、その言葉の意味する可能性はどこから来るかを問いました。何度も思いめぐらして、問い続けることを通して、神の言葉が現実になることへの希望と喜びを語る者に変えられました。  

 マリアは「神から恵みを受けた方」と呼ばれました。天使の言葉に対するマリアの応答を通して分かることは、神の恵みを受けて生きるとは、迷うことなく信じることではないということであります。むしろ、恵みを受けた者は、今は理解できない神の言葉の意味を問い続けることです。問うことは、いつか神の言葉の本当の意味を知ると信じることであります。その意味が明らかにされるという希望を持ち続けることです。

 まさにイエスの誕生は、この神の言葉を成就させました。ザカリアが賛歌で歌うように、イエスの誕生は神が救いの角を起こされたことのしるしであります。「我らのために救いの角を、 僕ダビデの家から起こされた。 昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに」(ルカ1: 69- 70)。

 神は手を差し伸べています。しかし、人の世はそれを無視しています。しかし、マリアは神に応答して、自分の手を差し出ました。わたしたちは神の差し出されている手にどのように応答するのでしょうか。



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