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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年11月29日(降臨節第1主日 ) 

人の子の到来〜目を覚ましていなさい〜

マルコによる福音書13章33-37

 

 「降臨節」と訳されたラテン語のアドヴェントゥス」本来は「到来」を意味する言葉です。2000年前にイエスが世に遣わされたことを思い起こしながら、この地上に栄光のうちに再び来られることを待ち望みます。カトリック教会や福音ルーテル教会は、「アドヴェントゥス」を「待降節」と訳しています。この主の「到来」とそれを迎える人間の待望の姿勢として、主を待ち望むことが、この期節のテーマです。三年周期の主日の聖書日課は、B年が始まりました。今年は主にマルコ福音書が読まれる年です。A年の終末の説教でも、マタイによる福音書の十人の花嫁の譬え話以降にも、「目を覚ましていなさい」という、終末に向かう姿勢を指し示す箇所が読まれました。マタイの備えるというテーマを受け継いでいます。

 きょうのマルコ 13章は、神殿の崩壊がいつ、どんな徴のもとに起こるのかと弟子たちが尋ねたときに、イエスが答えた、終末についてのまとまった教えであります。黙示思想の影響を色濃く受けているマルコ 13章は「ヨハネの黙示録」に対して、「小黙示録」と呼ばれています。黙示思想といいますのは、紀元前2世紀後半から紀元後1世紀の終わりにかけて、ユダヤ教内に広がっていた思想のことであります。ダニエル書などに現わされています。

 今の世は悪霊に支配され、神の意思が行われていない「悪の世」を神はいつまでも見過ごしにはせず、「この天と地に破局をもたらし、来たるべき世への転換点になります。悪人には永遠の罰をくだし、正しい人には永遠の祝福を与える」、とされます。この黙示思想はキリスト教の成立に影響を与えましたが、ユダヤ教の黙示思想とは異なり、キリストの死と復活によって新たな時代はすでに始まっており、終末にはキリストの再臨があり、キリスト者は救いのために呼び集められる、と主張されています。

 マルコによる福音書1333節以下は、135節から始まる終末についての説教の結びの部分です。この箇所の直前には「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(32)という言葉があります。「その日、その時」とは、「獣のようなヘレニズム帝国が猛威をふるうが、ダニエル書713節のいつか「人の子のような者」が神から遣わされて、正しい裁きを成し遂げる、という救いと当時の解放のメッセージが語られています。マルコ26節では「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」ときのことです。この「時」は通常の時間の観念に突入してくるという、決定的な神の介入の時なのです。聖書の終末についてのメッセージには二つの面があります。悪が栄えるこの時代はいつか終わり、神の正しい支配が訪れる、と言う、迫害の中にある信仰者を励ます希望のメッセージという面と、もう一つは日々の生活の中の出来事に追われて、本当に大切なものを見失っているときに、神の目からみて何を大切にして生きるべきかを語りかけています。

 今日の箇所の「目を覚ましていなさい」とは信仰者に対して、警告の面が強調されているメッセージだと言えるでしょう。ここでの終わりの時は、寓喩的に述べられています。34節には、家の主人(教会の主イエス)は旅に出て(天に昇り)、不在です。しもべたち、あるいは門番は(教会の信徒)、主人の突然の帰宅(再臨)に備えて、常に目を覚ましていなければならない。さらに主人はしもべたちに仕事を割り当てて責任をもたせています。教会に属する人たちは、終末が差し迫っているなかでも割り当てられた仕事の責任を果たさなければならないのです。そして、あなた方に言うことはすべての人に言う、とすべての信徒に対して語られています。マタイの終末の説教から続く「目を覚ましている」とはどういうことでしょうか。今日の箇所の「門番には目を覚ましているようにと、言いつけておく」(34)から考えると、とにかくその時がいつ来てもいいように備えることです。

 イエスは目に見えるものではなく、目に見えないもっと確かなものに弟子たちの目を向けさせます。この説教の31節に「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という言葉もあります。このように見ますとマルコ福音書で「目を覚ましている」とは、目に見える、滅びゆくものに対してではなく、目に見えない、本当に確かなもの、決して滅びないもの、主イエスのみ言葉に心を向けていることだと言えるのではないでしょうか。今、わたしたちが生きている現実をどう見ているか、そこで何が真実なもので、何を本当に信頼すべきか、問われています。「目を覚ましていなさい」という呼びかけにわたしたちは、今どのように応答していくのでしょうか。   

 キリスト者とは主人の言葉から希望をくみ取ることができる者のことであります。希望があれば、眠ることなく、心を張りつめて、主人の帰宅に備えることができます。34節も含め、「目を覚ましている」とは、任された仕事を果たす忠実さよりも、主人を待つ姿勢と結びついています。それは、 35節では主人の帰宅だけに注意が向けられているからです。

 宗教的な熱狂も、任された仕事へ没頭することも、再び来るイエス・キリストを忘れさせてしまうものとなるなら、無意味なものになります。イエス・キリストを抜きにした終末待望などはありえません。キリスト者は終末の日は救いの日だと知っています。この希望が「目を覚まして」主を待たせてくださる支えになります。

 主イエスの降誕を迎えるにあたり、再び来られる主を待ち望みましょう。



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