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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年11月22日(降臨節前主日 ) 

小さくされた者への愛            

マタイによる福音書25章31-46

 

 きょうは、教会暦では一年の最後の主日、つまり年末となります。来週の降臨節第一主日から教会の暦は新しい年を迎えます。教会暦での一年で最後の主日を聖公会では、「王なるキリストの主日」と呼びます。王政に生きたことのないわたしたちには分かりにくいイメージなのかもしれませんが、王はもともと「メシア」つまり、神に選ばれて油を注がれ、王とされたという意味です。新約聖書では、「メシア」をギリシャ語に翻訳して「キリスト」と呼びます。わたしたちが親しんでいる救い主「キリスト」という名は、イエスこそ真の意味で王であるということなのです。

 きょうの福音は、マタイ24章から「目を覚ましていなさい」という、備えて待つことから始まった説教が、いよいよ、いつか突然訪れる世の終わりへの備えについての説教の結びになります。31節の「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」は、ここでの天使は、ダニエル書などの黙示思想に登場する天使とは異なっているようです。というのは、裁きを執行する者ではなく、王として王座に座る人の子に仕える天使です。そして、すべての国民が集められました。32-33節の「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」という背景には、きょう朗読していただいたエゼキエル3417節があります。 

 神の顕現と裁きに関する伝統的な表現と言われています。パレスチナ地方では羊と山羊は日中一緒に放牧していました。夜になると山羊は寒さを嫌いますので別に分けて洞穴や小屋に入れるという習慣がありました。ここでの人の子の裁きは、羊飼いの行為になぞられます。 

 34節 王は、右に立っている者には、「天地創造のときからあなた方に準備されている国を受け継ぎなさい」と告げています。原文には「天地創造」という言葉がありませんので、その部分を直訳しますと、「世の初めからあなたたちに用意された王国を継ぎなさい」となります。神は世の終わりの裁きにおいて、疑問の余地を挟めないほど明確な基準を示しています。これは右側にいる人たち、すなわち神の祝福を受けた人たちに語り掛けます。

 35節「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに尋ねてくれたからだ」それに対して右側にいた人たちが応答します。40節、はっきり言っておく。わたしの「兄弟である」この最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」のです。

 マタイ1040,42節に「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と。さらに「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」という言葉と、よく似ています。

 41節で「それから、王は左側にいる人たちにも言います。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」、と選別されました。

 「飢えていた、のどが渇いていた、旅をしていた、裸であった、病気だった、牢にいた」。これらの状況にあったとき、何もしなかった。そして、左側にいる人々に45節で、王は「はっきり言っておく、「この最も小さいものにしなかったのは、わたしにしてくれなかったのである。」この者どもは永遠の罰を受ける。」正しい人たちは永遠の命に与るのです。わたしたちはどちら側になるのでしょうか。イエスご自身が、彼の生涯の終わりにこの人々と同じような状態になっていました。

 ゲッセマネの園で祈り、逮捕されたイエスは一晩、大祭司カヤパの屋敷の「牢」に入れられ、そこに吊るされていました。十字架にかけられるとき、イエスは「裸」にされました。「病気」以上にイエスは十字架刑で苦しめられ、弱り果て、命まで奪われます。イエスがこの苦難の中にあるとき、弟子たちは何をしたのでしょうか。ペトロは、イエスを三度「知らない」と主を拒みました。皮肉にもイエスが吊るされた祭司の屋敷跡が鶏鳴教会、鶏が鳴く教会として観光名所になっています。弟子たちに裏切られても、イエスの十字架への歩みは苦しむすべての人に向けられています。わたしたちは、目の前の苦しむ人の中に、キリストご自身の姿を見ることができます。それは、この目の前の人が神の子であり、兄弟姉妹であると受け止めることです。

 天の国を受け継ぐ条件は、きょうの福音が強調しているように兄弟姉妹である最も小さい者に仕えることです。

 神の最終的な裁きのとき、わたしたち自身の生き方が問われるのです。「この最も小さい者」とは、わたしたちの目の前にいて、実際に助けを必要としているすべての人を指しています。その人々にどう関わったのかが、最終的に神の前で問われることになります。

 ですから、今までの生活を悔い改めて洗礼によって、180度向きを変えて、キリストの祭司職に与かる者となったわたしたちは、キリストに倣って愛の実践に励むことです。きょうから始まる一週間の歩みも、イエスと共に隣人と共に生きることが出来るように祈りたいと思います



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