説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年11月8日(聖霊降臨後第23主日 ) 

10人の乙女のたとえーともし火を灯し続ける            

マタイによる福音書25章1-13

 

 イエスの活動を知らせる主日のA年の日課も余すところ3回になりました。イエスの最後の説教になるマタイ251-13節、14-30節、31-46節の3回が順次読まれていきます。この三つの福音の内容は終末についての教えになっています。ユダヤ教の指導者たちと対決した神殿を後にし、イエスはオリーブ山に登りエルサレムの街が一望できるところに立ち、そこからエルサレムの街と神殿を見ながら、弟子たちに対して終末についての説教をします。2445-51節のたとえと25章全体を伝えています。

 神とイスラエルの関係が、キリストと教会の関係に移し替えられ、教会は花婿であるキリストを喜び迎える花嫁にたとえられていきます。このたとえでは教会は花嫁ではなく、「10人のおとめ」にたとえられています。しかし、喜びの時であると同時に、目を覚まして待つべき終末の時を婚礼にたとえているのは明らかです。10人の乙女の「灯火」は婚宴での踊りなどを照らし出すためのたいまつのことです。ぼろ布を先に巻き付け、油を染み込ませたもので、少々の風では消えないようですが、燃焼時間は十五分ほどなので、途中で油を補給する必要がありました。

 10人のおとめのうち、5人は愚かで、5人は賢いおとめでしたが、その違いを生み出す原因が、「ともし火を持っていたが、油の用意をしていなかった」油の用意をしていたか、どうかが、愚かさと賢さとの分かれ目になります。しかも、5節には、賢い者も含めて全員が「眠っていた」とありますので、「油をもっていた」かどうかが、両者を分けるしるしとされているのは明らかです。賢さを示すしるしは「油」にあります。「愚かな者」とは御言葉を聞いても実行しない者のことであり、「賢い者」とはそれを実行する者のことであるといわれています。

 当時のユダヤの習慣では、婚宴は誰もが参加できるように、夕方から始まるのが普通でした。婚宴に先立ち、花婿は花嫁を迎えるために、友人たちと行列を作り、花嫁の家に向かいます。

 6節では「花婿だ、迎えにでなさい」という叫びによって、花婿の到来は思いもかけぬ時に起こることが強調されています。花婿の到着を知らせる叫び声があったとき、眠っていたおとめたちは皆起き上がり、自分たちの「それぞれの灯火を整えた」(7節)のでした。このたとえが、予期しない時に終末的な裁きを視野に入れているのは明らかです。

 現実の婚宴では、戸を閉めてしまい、入場を拒絶するようなことは考えにくいことですが、「戸が閉じられた」ということはたとえにとって重要な意味を持っているはずです。決定的な時が迫っているので、準備を怠るなら、取り返しのつかない事態に陥ってしまうことを意味しています。

 真夜中に、「花婿来た、迎えにでなさい」という叫び声があがり、おとめたちは起き上がり、「自分たちの灯火」から燃えかすを取り除き、再び燃えるようにと油をつぎたします。「愚かなおとめ」も「賢いおとめ」も灯火を「整える」までは同じですが、灯火が消えかかっているのに気づいたとき、両者の差は歴然とします。油の用意を怠った「愚かなおとめ」は頼みを断られ、店に走らねばならない羽目に陥ります。

 なぜ油を分けてほしいという願いを退けるのでしょうか。このたとえがキリスト者の取るべき姿勢を教えているのでしたら、共同体の仲間と油を分け合うことが勧められるのではないのかという疑問が起こります。しかし、たとえが語っているのは、自分の灯火を燃やし続けるための油は自分が用意しなければならないということであります。賢さのしるしとなる「油」は、簡単には分け与えることのできない何かなのです。

「愚かなおとめ」が油を買いに出ている間に、花婿が来て戸が閉じられてしまいます。油を「準備している」5人は婚宴の席に入り、「残った」おとめたちは「私はあなたがたを知らない」と断られてしまいます。こうして、10人のおとめの間にはっきりとした「分離」が生じました。この「分離」をもたらしたのは「油」です。花婿の到来(キリストの再臨)に向かって用意すべきものは「油」です。マタイ5 16節に「あなたがたの光は人々の前で輝け。人々が、あなたがたの善い業を見て、あなたがたの天の父をあがめるために」とありますから、マタイにとって「灯火」は「善い業」を意味していると思われます。しかし、マタイ5章の「光」は神から来る光であり、「あなたがたの光は輝け」とは、「あなたがたが神から受けた光が輝くのに任せよ」という意味です。あなたがたが善い業を行う力は神から来ます。だからこそ、人々はあなたがたではなく神をあがめます。あなたがたの善い業は神との交わりの中で行われます。そこには神の業を見つめ続けさせる聖霊が与えられています。そうであるなら、灯火をともし続けるための「油」は聖霊を指しているのでしょう(1 テサ5:19)。神が与える聖霊であり、善い業であるから、それは他人から分けてもらうことはできません。神との交わりは与えられたその人自身が保ち続けなければならないものだからであります。

 初代教会・マタイ共同体にとって、最も深刻な神学的問題は、終末遅延でした。彼らはイエス・キリストの再臨と究極的な救いの実現を熱望していました。そして、それは、当時起こっている、また引き続き迫ってくる困難に耐えてきました。それはこの苦難は長く続かないと考えて迫害を耐え忍んできたからです。しかし、終末がなかなか来ない、実現しないと感じ始めたとき、問題は、信仰の本質にかかわるものになります。彼らの歴史観は破綻します。やがて、倫理的緊張は薄れ、失望と放縦が増してきました。この10人の乙女のたとえの前に、2448に「しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴りはじめ、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする」と彼ら信徒の生活の緩みの譬えが記されています。人々は、まだまだ終末は来ないのだから大丈夫と緩み始めるのです。現在に生きるわたしたちも終末は来ないよね、もしかしたら、傲慢に陥り、現代科学では、知的なレベルでは、終末っておかしな事じゃない、とか色々と迷い、神様から離れていくということが現実に起こってきます。

 そうではなく、天地創造の神に委ねて、日々の生活を整えながらキリストの再臨を待ち望みましょう。