説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年11月1日(諸聖徒日 ) 

幸いなる人びと            

マタイによる福音書5章1-12

 

 111日は諸聖徒日、通常の日課に優先して祝日の方が祝われます。

 日本聖公会では、この諸聖徒日、諸魂日に、この世での命を終え、天に召された方々を記念する礼拝をささげます。 天の全会衆とともに神をあがめ、その祈りと交わりのなかで、わたしたちも救いの望みを確かにします。

 諸聖徒日の福音書には、マタイは5:1-12節、あるいはルカ6:20-26節が選ばれています。

 諸聖徒日の使徒書で朗読されるヨハネの黙示録7章では「天上の礼拝」が描かれています。その礼拝の中で白い衣を着て、手になつめやしの枝をもった人々は、「救いは神と小羊とのものである」と叫びます。また天使たちは皆、玉座の前にひれ伏して神を礼拝しました。白い衣を着て、なつめやしの枝を手にもった人々は御子イエスによって「罪と大きな苦難」から解放されました。

 きょうの福音書はイエスによる説教の一分ですが、その中でイエスは、神の国に招かれ、教えを説き、神に従う人々のあるべき姿とその目指すべき生き方を教えています。マタイ福音書の5章で8つの「幸い」が語られます。マタイでは「山上の説教」と呼ばれますが、ルカでは617節でイエスは彼らと一緒に山から下りて平らなところにお立ちになったので、平地の説教と呼ばれています。山上の説教は、さまざまな場面でイエスの語られた言葉がつなぎ合わされて今の形になったと考えられています。3-10節は、真の幸福をもたらす8つの手がかりを述べています。

 マタイ5章は構造的に見てみますと3-6節と7-10節で二つのまとまりになっています。また、11-12節は文体がかわり、散文的になっています。だからのちに付加されたものと思われます。

 イエスの言葉とされている語録集を基本に、 マタイの「8つの幸い」の前半部の4つと、よく似ているルカ福音書の「3つの幸い」を比べてみましょう。

  b   貧しい人々は幸いである。

     神の国は〔あなた方の者〕だからである。

  21a  飢えている人々は幸いである。

     〔あなたがたは〕満ち足りるようになるからである。

  b  〔嘆き悲しむ〕人々は幸いである

     〔〈あなたがたは〉慰められるようになる〕からである。

  22a  あなたがたは幸いである。

     人の子のゆえに、人々があなたがたを罵り、〔迫害〕し、

  b   あなたがたに〔対して〕〔あらゆる〕悪口を〔言った〕時には。

  23a  あなたがたは喜び、〔歓びなさい〕。

  b  天においてあなたがたの報いは多いからである。

  c  というのは、このようにして彼らはあなたがたより以前の預言者を

  〔迫害した〕からである。

Q3 弟子に対する幸いの言葉」として『Q文書―訳文とテキスト・注解・修辞学的研究』山田耕太著(2018、初出2014年『敬和学園大学研究紀要』23号)26-27ページ

このQ資料を通してマタイ5章とルカ6章を比較して見ていきましょう。

マタイ 

53 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

  4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 

  5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 

  6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

ルカ

620 貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。

  21 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。      

     今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる。

 マタイ53 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。マタイは「天の国」と表現していますが、Q資料と同様にルカでは神の国です。マタイは神の国を避けて、天の国と表現しますが天国のことではありません。神の国、すなわち神の支配と考えればよいでしょう。

 貧しい人々は幸いである。ルカでは貧しい人々は幸いである。」と経済的な貧困を言っていると思います。マタイは「心」の貧しいものは幸いであると述べています。「心の」貧しいと訳されている「心」は直訳では「霊」のことです。霊において貧しいのは、神の前に救いを求めて立つということでしょう。詩編37では、「主に望みをおく人」と「貧しい人」は同義語のように捉えられています。

 マタイの6節「義に」飢え「渇く」人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

と「義」と「渇く」が付加されています。神によって人間(民)に命じられたことで飢え渇くごとく神を必死に追い求めることです。きょうの日課のあとの20節以下でキリスト者の生き方が示されています。ここでは展開しませんが指針としてお読みください。

 Qの「〔嘆き悲しむ〕人々は幸いである。」マタイは「悲しむ人々は、幸いである、」と嘆きを略しています。ルカでは「今泣いている」となっています。悲しむ人とは、罪を悲しむのか、また愛する人を亡くしたから悲しいのか、人生には悲しいことが多種多様にあります。ただここでは、神にだけにしか希望を持つことができない人の悲しみと捉えられます。「その人たちは慰められる。」からです。

 55 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。このマタイの「柔和」は詩編3711節からの引用です。「柔和な人は地を受け継ぎ//豊かな平和に恵まれる。これは貧しいので神の前に低く、へりくだっている状態」を意味する言葉であったそうです。

 このようにマタイ53節とルカ620節、マタイ56節とルカ621節前半は多くの言葉が共通しています。マタイ54節とルカ621節後半も内容的には

 よく似ています。もともと1つのイエスの言葉が伝えられていくうちに2つの形になった、と考えるのが良さそうです。そしてさらに言えることは、Q資料が真正イエスの言葉であるならば、単純なルカの形のほうが元の形に近いということです。

 なお、マタイ55節の「柔和な人々は」の句はルカにはありませんが、この言葉は、詩編3711節の引用と言えます。新共同訳聖書で、詩編のこの箇所は「貧しい人は地を継ぎ」と訳されています。

 「貧しい人」「悲しんでいる人」「飢え渇いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国があなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨てていない、神はあなたがたを救ってくださるから幸いなのです。

 マタイの後半の4つの幸いは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生きようとする人々の姿を表しています。それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」「義のために迫害される」という生き方です。「8つの幸い」というマタイの形は全体としては、単なる祝福ではなく、その祝福の中を生きるとは、どういうことかをも示しているのです。キリスト者の生き方とは「迫害の中にあっても正義を貫いて生きる人たちに深い共感を抱いて心寄せる生き方であり、自身もまさにそのような生き方だ、と言えるでしょう。