説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年10月25日(聖霊降臨後第21主日 ) 

最も大いなる掟            

マタイによる福音書22章34-46

 

 先週の「皇帝への税金」についての問答でイエスを罠に陥れようとしたファリサイ派の計画は失敗し、サドカイ派の人がきて「復活についての問いかけ」があります。その後、きょうの福音では「多くある掟の中でどの掟が最も重要か」と「ダビデの子についての問答」の話にりなります。これらの一連の論争はイエスとファリサイ派、ヘロデ派、そしてサドカイ派との間に交わされる論争が描かれています。きょうの日課の41節では、ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスは問答を仕掛けます。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」と尋ねると、彼らは「ダビデの子です」と答えました。メシア、すなわち油注がれた者はダビデの家系から生じると考えられてきました。イエスは神の子であるという認識から「では、どうしてダビデは、霊を受けてメシアを主と呼んでいるのか」。詩編110編の「主なる神は私の主(キリスト)に仰せになる/わたしの右に座れ、敵をお前の足台とするまで」(聖公会祈祷書訳)を引用して、「ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」だれも言い返すことができなくなりました。これ以後この問答は語られませんでした。

 きょうの福音は一同が、一つ所に集まってきて、律法の専門家がイエスを試そうとしてやってきました。そして「先生、律法の中でどの掟が重要でしょうか」と尋ねます。イエスがファリサイ派の人の質問に答えて、申命記とレビ記から引用します。私たちの祈祷書の準備の祈りのときに使われる箇所でもあります。それは申命記64-5節にはこうあります。モーセがイスラエルの民に語りました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

 この戒めが与えられたのは、イスラエルの民はエジプトを脱出し、荒れ野を旅して約束の地に向かっていました。それは、紀元前13世紀のことでした。イスラエルの民にとって最も大切な掟です。レビ記192節の「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」「聖なる」とは、人間とまったく違う神の特性を表す言葉です。イスラエルの民はこの聖なる神に救われた民として、神が聖であるように聖なる者にならなければならないのです。この「聖であること」はレビ記1918節が典型的に示すように「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」「神の愛を生きる」ことでもあるのです。これら二つの掟を最も重要な掟であるとする言葉は、イエス以前には知られていません。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われています。祈祷書では、この二つの掟は係っている。と訳しています。なぜ、イエスは律法のほかに問われてもいない預言者を付け加えたのでしょうか。「律法全体と預言者」は旧約聖書全体を表しているからです。とは言え、この時代は旧約聖書と言いません。新約聖書がありませんので旧約がないのです。律法の書、預言の書、知恵文学などの諸書の三つのカテゴリーが存在します。イエスは、律法の書に預言者たちを加えることによって、ファリサイ派が律法を歴史の具体的な状況から切り離し、抽象的な解釈に陥っていることを指摘するためです。ファリサイ派とイエスの律法解釈との違いを明確に示しました。

 神が歴史の中で行った救いの業に神の愛を見出すことができるなら、人の生き方として、律法は決して束縛ではなく、救いの喜びをあらわすための行ないの指針になっていきます。救われていることへの感謝になるでしょう。

 わたしたちにとって、律法は背負いきれない重荷と感じる時、神の救いのご計画を見落としているからです。永遠の命への道を忘れてしまっているからです。もし、そのような状況に陥ったとき、もう一度主の十字架の愛に立ち返りましょう。ファリサイ派の人々のように文字としての律法に引きずられないように、神の恵みに目をとめていきましょう。

 神の人間に対する望みは、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と記されています。「基づいている」は直訳では「かかっている」ですが、この動詞は石臼を首に「かける」とか、イエスを木に「かける」の意味に使われています。

 み言葉が教えるすべての掟はこの二つの同等の愛に「かかっています。」他のすべての掟を守るとき、この愛を欠いているなら無意味になります。613の掟の中で、最も重要な戒めは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二もどうように「隣人を自分のように愛しなさい」この愛と訳されている語は共にアガパオの未来形が使われています。

 皆さんもよくご存知のアガぺの中動詞です。必死になって神を愛する。必死になって自分を愛するように隣人を愛することが求められています。「神を愛する」とはどういうことでしょうか。神は人間に何かをしてもらうとしているわけではないでしょう。神は無条件に人間を愛しておられます。その神の愛に気づき、感謝すること、これが神を愛することだと言えるでしょう。この神との関係を大切にすること、と言ってもいいかも知れません。「神を愛する」ことは、必然的にわたしたちを「隣人を愛する」ことに向かわせるのです。

 イエスは神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することこそが神の望みである、と考えますが、ファリサイ派はそうではなく抽象的な律法のなかにありました。ここがファリサイ派との大きな分岐点になります。私たちはこの2つの掟をどう生きているかということを振り返ってみましょう。気づきが与えられることが大切です。気づきが与えられ神の恵みに目をとめていきましょう。