説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年10月18日(聖霊降臨後第20主日 ) 

神のものとして、真実に仕える            

マタイによる福音書22章15-22

 

 イエスに対するファイリサイ派や律法学者たちの陰謀を巡らせる話が続きます。彼らはイエスを陥れようとする行為はいつ頃から始まったのでしょうか。イエスがエルサレムの神殿から商人を追い出しました(21:12)。祭司長や長老たちが何の権威でこのようなことをしたのかと問いただしました。「二人の息子」「ぶどう園の農夫」、そして、祭司長や長老に向けられていた批判は、「婚宴のたとえ」を語り終えた後に、この論争はファリサイ派の人々に向けられました。ファリサイ派は1214節で「安息日に癒しを行なったイエスを見て、彼を殺す相談をしていた」とこが記されています。

 マタイ2145-46節には、「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとした」という記述があります。イエスと彼らの対立は深まっていきました、ここに登場するファリサイ派の人々は明らかな敵意をもってイエスに近づいています。

 パレスチナは、紀元前63年にローマの将軍ポンペイウスがエルサレムを占領して以来、ローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国はユダヤ人の宗教的自由を認めながら、税を徴収することによって支配地域からの利益を得ようとしていました。

 ここで登場する 「ファリサイ派」は、偶像崇拝をしないように、律法を厳格に守ろうとしていた宗教熱心な人たちでしたから、皇帝への納税を原則的に認めるわけにはいきませんでした。反対の立場でした。しかし、彼らは現実的な対応として納税していました。一方の「ヘロデ派」は宗教的なグループではなく、政治的な一派です。ローマによって立てられたヘロデ王家を支持する人たちですから、ローマ帝国への納税を当然のことと考えていました。本来、ファリサイ派とヘロデ派は立場的に仲良くありませんでしたが、ファリサイ派は、ヘロデ派をも巻き込んで、イエスを陥れようとしています。この件に関して両者が連携して一緒にイエスのもとに来ます。しかし、ローマへの納税問題への両者の態度は必ずしも一致していたわけではありません。このように立場の違う者が手を組んだのは、イエスの排除という目的では一致したからです。

 税に関しては、紀元後6年にローマ総督がユダヤに置かれたとき、人頭税が義務づけられました。人頭税の税額は分かりませんが全員に同額が課せられたと推測されています。ローマへの納税は、ユダヤ人にとっては経済問題であると同時に、宗教的な問題でもありました。なぜ宗教的な問題かと言いますと、ローマ皇帝はすでに神格化され始めていましたので、そのような者への納税はイスラエルの神への背信行為だったからです。特に「神への熱心」ゆえに被造物である人間のいかなる支配をも認めないという熱心党などは、ローマへの納税を拒否し、反乱を組織することすらあったようです。そのような状況の中で、持ち出された納税問題ですから、イエスが肯定の答えを出せば、民衆の支持を弱めることができます。否定の答えを出せば、ローマへの反逆者として告発できるからです。イエスを排除したいと考える者にとって、納税問題は格好の罠となりえたのです。

 「偽善者」と訳されるヒュポクリテースは、古典ギリシア語の元来の意味は「演劇の役者」を意味しましたが、この意味が悪いほうに転じて、「うわべを偽る者・偽善者」を表す言葉として転化しました。聖書の述べる「偽善」は、本心を隠しておいて、上辺を繕う態度のことだけではないようです。肝心なのは、体裁を繕うような者の根底にある神を否定する心のことです。これをイエスによって「偽善者よ」と見抜かれたのでした。

 偽善者とは口先では神を敬うが、現実の生活では神から離れて行動する者を意味しているわけですからファリサイ派がこれに当てはまることになります。

 イエスは納税のためのローマの硬貨を持ってこさせます。「デナリオン銀貨」にはローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていました。その銘は「ティベリウス・カエサル・神聖なるアウグストゥスの子」で、ローマ皇帝を神格化していました。

 有名な「カエサル」は古代ローマの共和政を終わらせ、独裁支配を実現した人物で、その後継者がローマ帝国の初代皇帝となるアウグストゥスです。ティベリウスはアウグストゥスの子で第2代皇帝ですが、「カエサル」は「皇帝」の称号になっていたのです。だから原文では「カエサル」になっていますが、「皇帝」と訳しているのです。ユダヤ教は偶像崇拝禁止という点で徹底していましたから、このデナリオン銀貨は本来なら神殿に持ち込むことが許されないものでした。しかし、実際には誰もがその銀貨を使わざるを得なかったし、神殿の中にも持ち込まれていました。実際にファリサイ派はデナリオン銀貨を持ち、使っていたのです。だから自分たちは偶像崇拝をしていながら納税の是非を議論しているのはおかしいのではないか。と彼らの矛盾を指摘しました。イエスは彼らの罠を巧みにかわしたのです。

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とはどういう意味でしょうか。このイエスの言葉はあまりに短いので、さまざまな解釈の可能性がありえます。近代人の概念では「政教分離」だと解釈するでしょうけど、古代にはそういう概念がありません。言えるのは、皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨は、皇帝のものと考えられていました。神のものとは、創世記127節に「神は人をご自分のかたちに創造された」のですから人は神のものです。イエスは「皇帝の像が刻まれた硬貨は皇帝に返せばよい。しかし、神の像が刻まれた人間は神に属するものであり、神以外の何者にも支配されてはならない」と言っているのではないでしょうか。もしイエスが「皇帝のものは皇帝に」とだけ言ったのであれば、単純に皇帝への納税を認めただけのことです。しかし「神のものは神に」と付け加えることによって、イエスがもっと根本的なことに人々の目を向けさせているということは確かなのではないでしょうか。神によってつくられ、神の似姿が刻印されているので、人の命が掛け替えのないものです。神はイエス十字架を通して神に目を向けさせ永遠の命を刻んでくださっているのです。神に立ち返ってみ守りのうちに日々を送りたいと思います。