説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年10月11日(聖霊降臨後第19主日 ) 

婚礼の礼服            

マタイによる福音書22章1-14

 

聖霊降臨後第17主日の「二人の息子」のたとえ(マタイ2128-32)は、神の救いがイエスの先駆けとしての洗礼者ヨハネによって告げ知らされていました。先週の第18主日の「ぶどう園と農夫」のたとえ(マタイ2133-43)は、神の救いがイエスの死と復活によって、実現したことを語っています。そのイエスが救いを完成させるために再臨する日がやってきます。きょうの福音も神殿の境内で、当時のユダヤ人の指導者やファリサイ派の人々に、イエスの再臨の日を「王子の婚宴として」語られたたとえ話です。

  きょうの福音の並行箇所として、ルカによる福音書1415-24節によく似たたとえ話があります。ルカでは、エルサレムへの旅の途中、イエスがファリサイ派の人の家に招かれたときの話になっています。マルコになくルカにあることは、イエスの語録とも言われているQ資料をもとに独自の視点で記されたものと思われます。

マタイでは、エルサレム神殿の崩壊の時代までを視野に入れた救済史の観点に立ち、さまざまな伝承の要素が付け加えられているようです。

マタイの特徴についてご一緒に見ていきましょう。この話は、イエスの言葉を真剣に聞こうとせず日常生活に埋没して自分の計画や自己都合を優先させて行動する人たちに対して、彼らを批判するために語られたものでしょう。

天の国は、どのようなものかたとえを用いて語られました。

「ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。」と語り始めました。「婚宴」は聖書の中で、神と人とが一つに結ばれる救済のイメージとして語られますが、マタイはこの点を強調しています。

王は家来たちを二度送ります。彼らは祝宴への招待を伝えますが、来ませんでした。最初の家来たちは明らかに旧約の預言者たちです。二度目に家来たちは、牛や肥えた家畜を屠って、祝宴が整ったことを告げますが、無視されてしまいます。一人は畑に、一人は商売に出かけ、また他の人々はただ拒否するだけでなく遣わされた「家来を捕まえて乱暴し、殺して」しまいます。そして、怒った王は「軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」という展開になっています。

マタイは、紀元70年に起こったエルサレムの滅亡を、キリストを受け入れなかったユダヤ人に対する神の罰のように見ているのでしょうか。

招いた人々は相応しくなかったので、町の大通りに出て、見かけたものはだれでも婚宴に連れてきなさい。と家来たちに命じました。そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たのです」(9-10)。だから「婚宴は客でいっぱいになった」になっています。マタイは教会に招かれた人々のことをみています。教会とは「良い麦と毒麦」が共存している場(マタイ1324-30)なのです。それは終末の裁きの日まで続くのです。11-14節はルカにはありません。町の大通りからたまたまそれも急に連れてこられ人々が「礼服を着ていない」といって主人に責められるのはどう考えても理不尽です。一説によりますと主人が貸し与えたものを着ていなかったからだと言われています。

この礼服のたとえは本来、10節までのたとえとは別の話だったものをマタイがつなぎ合わせたものと考えられています。

それでも礼服を身に着けていない人を攻撃する主人の意図について深くその意味を考えてみましょう。マタイにとって「罪びとも招かれている」ということは素晴らしいことです。そして花婿である王子の登場をまっている善人も悪人も混交の人々の姿は、死んで復活したイエスが再び来るのを待つマタイ信仰共同体の姿を表しているのでしょう。

この人々の集まりには、婚礼の礼服を着ていない人は相応しくないのは、婚礼の礼服を着ていない人も食事の良さに気づきました。しかし彼は誰が招いた婚宴であるか知ることができませんでした。

教会には、善人も悪人も多くいます。悪人は排除されませんが「婚礼の服」を着て、いない人は外の闇へ投げ出されます。神がわたしたちに期待することはただ食事の席につながることではありません。神が誰であるかと知って、宴席につながることです。礼服は神を知った者の姿を表しています。信仰共同体を神が招いているのです。「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」とあるように、罪びとをも愛する神の心に応えて生きることなのではないでしょうか。

マタイ福音書はイエスの最後の説教の中でそのことを明確に示しています。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ2535-36,)

きょうの日課のフィリピの信徒への手紙44節以下に主において喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになりなさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。困難なことを克服するために主なる神様に願い求める日々でありますように。