説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年10月4日(聖霊降臨後第18主日 ) 

神の国の実りー神のもたらされた救いに生きる            

マタイによる福音書21章33-43

 このところぶどう園に関する話が続いています。先週の「二人の息子」のたとえに続き、イエスは神殿の境内で、祭司長や民の長老といった当時のユダヤ人の指導者たちに向けて、33節で「もう一つのたとえを聞きなさい。」と言いながらきょうの福音の「ぶどう園と農夫」のたとえを語っています。

 このたとえ話は、並行記事として、共観福音書のマルコ12章1-11節とルカ20章9-18節にもあります。他の福音書に比べてみますと、共感福音書共通しているのは、この息子が「ぶどう園の外」で殺されていることです。それは、イエスが当時エルサレムの城壁の外にあったゴルゴタの丘で処刑されたことを意味しているようです。
マタイの特徴が表れている箇所がありますので、マタイの信仰共同体のおかれた状況が反映されているようです。

 33節に、「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」これを農夫たちに貸して、旅に出ます。

 これは旧約聖書の日課であるイザヤ5章1節からの引用であります。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/ そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ ぶどう畑を持っていた。2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/ 良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/ わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。

 34節で収穫のときが近づいたので、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送りました。ところが農夫たちは、この僕を捕まえて、一人を袋叩きにしました。一人を殺し、次の一人を石で打ち殺しました。さらに前よりも多くの僕を送りましたが、農夫たちが同じ目に遭わせました。袋叩き、殺し、石打にした、と彼らの行動はエスカレートしていきました。

 そこで最後に、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」といって、主人は自分の息子を送りました。しかし、農夫たちは、その息子をみて話し合いました。「これは跡取りだ、さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。」そして息子を捕まえて、ぶどう園の外に放り出してしまいました。主人から管理をまかされたものを、跡取りを殺せば、手に入るという考えに疑問がわきます。当時の決まりによりますと、相続人のいない財産は、最初にそれを占有した者の財産になったそうです。

 イエスは、寓喩的に語っていませんが、のちの教会の解釈として、寓喩的に理解されるようになりました。寓喩的とは、登場する一つひとつの要素がたとえられている事柄と関係させるようなたとえです。ここでは「ぶどう園」はイスラエルの民、「家の主人」は神、「農夫たち」はイスラエルの宗教指導者、「僕たちは」は神が遣わされた預言者、「息子」はメシアであるイエスと理解しました。

 以上すべてのことから、きょうの日課の次の節の44節では、イエスは最後にすべての人を裁くために来られます。という記述からマタイは44節も含めて、このたとえ話の中に神の救済史全体を見ていると考えることができます。

 神は旧約時代に預言者たちをイスラエルの民に遣わしましたが、イスラエルの宗教的指導者たちは彼らを受け入れなかったのです(34-36節)。最後に神はご自分の子を遣わしましたが、このイエスも迫害され、殺されました(37-39節)。しかし、神はイエスを復活させ、救い主として立てられました(42節)。そして神の救いはユダヤ人ではなく異邦人に与えられるようになったのです(43節)。これがマタイの見ている「救いの歴史」の内容だと言えるでしょう。

 42節の旧約聖書の引用は、詩編118編22-23節からのものです。この詩編の句は、新約聖書の他の箇所で復活したイエスに当てはめられています

 マタイもここでイエスのメシアとしてのあり方を説明するために、引用しています。家造りの捨てた石が、隅のかしら石となった石のように、イエスは人から見捨てられ、殺されますが、神によって復活させられるメシアであります。

 この詩編118編22-23節は、聖公会の祈祷書の訳では、家造りの捨てた石が/ 隅のかしら石となった。これは主のみ業/ 人の目には、不思議なこと。と訳されています。新共同訳では、「隅の親石となった」と訳されています。

 隅の親石を直訳すれば、隅のかしらとなります。この「頭」は頂上を意味しているとすれば、建築の仕上げとして玄関正面の上部に埋め込まれる「要石」のことです。この石を外すとアーチ型の天井は崩壊します。一方「隅の親石」ですと水平の端っこならば、建築の初めに外側に置く「礎石・土台」を意味します。日本の鉄筋コンクリート造りの建築物に「礎石」と刻まれた土台を目にすることができます。

 イエスは、人からは役立たない石として捨て去られましたが、神によって「隅のかしら石」とされました。聖ルカは使徒言行録4章11節で「あなたがた家を建てる者に捨てられ、隅の親石となった石です」と記しています。初代教会の中で、イエスこそ「人に捨てられ、神に選ばれた石」として確固たる位置にあります。更に続けて証言しています。12節「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべきもの名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

 43節の「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」というは、マタイだけが伝える言葉ですが、「あなたたちユダヤ民族ではなく、「ふさわしい実を結ぶ民族」である異邦人に与えられることになります。