説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年9月27日(聖霊降臨後第17主日 ) 

二人の息子の譬え — 徴税人や娼婦が先に           

マタイによる福音書21章28-32

 弟子たちを伴ったイエスのエルサレムへの道行きは19章から始まりますが、エルサレム入城の記事もマルコによる福音書の内容に従っていますが、ユダヤ教指導者との最終的な論争や終末論などはマタイの特徴があらわれています。

 マタイ福音書では、21章からイエスのエルサレムでの活動が始まります。このたとえは誰に対して語っているのでしょうか。日課の少し前の23節で「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、民の長老たちが近寄ってきて言った。」と記されていますのでイエスは神殿の境内で、祭司長や長老という当時のユダや教指導者たちと論争しています。だから彼らに対して語ったメッセージだと言えます。そしてきょうの福音のたとえ話は共観福音書のマタイだけが伝えています。

 28節の「ところであなたたちは、どう思うか」と「彼は兄のところへ行き、子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言いました。この言葉は先週の「ぶどう園の労働者」のたとえ話(マタイ20章1-16節)を思い起こしてしまいます。あのたとえ話で夕方まで誰からも雇ってもらえずに立ち尽くす人々の姿を思い起すならば、ここでお父さんが願っているのは、息子たちに辛い労働をさせることではなく、働くことを通じて、父のみもとで生きる喜びを感じることです。そして父はすべての人を招いている、ということを示していると、言えるのではないでしょうか。「ぶどう園に行って働きなさい」という父の言葉に対し、兄は「わたしはいやです」といいましたが、兄が言葉では拒否しながら後で従いました。次に頼まれた弟は、「お父さん、承知しました」と言葉で承知しながら従いませんでした。このたとえを語ったのちにイエスは祭司長たちや律法学者たちに向かって「二人のうちのどちらが、父ののぞみ通りにしたか」と尋ねました。すると「兄の方です」というと、彼らの答えは当然の答えだったのです。恐らくこのことで彼らはイエスに敵意を抱くことがなかったでしょう。このたとえ話は「言葉でどう応えるかではなく、行動で神に従うことが大切である」ということを教えるたとえ話だ、と受け取ることができるのではないでしょうか。

 31節後半からイエスは、このたとえ話を祭司長や長老たちを攻撃するために用います。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなた方より先に神の国に入るだろう。と喧嘩を売っています。32節は当時のマタイの信仰共同体の事情によってイエスの語録から付加したものと考えられています。洗礼者ヨハネを受け入れた「徴税人や娼婦」の方があなた方より先に神の国に入るだろうと、受け入れなかった祭司長や長老たちにとってこれは受け入れがたい、赦しがたい言葉です。イエスは彼らにきっぱりと言います。行動の問題というよりも、「神の国は近い、回心してこれに備えなさい、と命じます。そこで洗礼者ヨハネの「回心しなさい」という呼びかけを受け入れなかったことを持ち出したのです。ここがポイントになっています。神への道を説いたヨハネに対する彼らの態度をもう一度明らかにされました。祭司長や律法学者たちは、律法の遵守を説きながらも神のみ心に反した行いをしていたからです。

 本当に神の呼びかけを深く受け取るかどうか、そして、自分を変えることができるかどうか、がここで問われているのです。日本語の場合、「悔い改める」というとき反省する。という意味合いが強いのですが、洗礼者ヨハネやイエスのいう悔い改めは、心を回して、神に心を向けることです。単なる反省ではなく、神に立ち返ることです。 徴税人と娼婦は当時のユダヤ人社会の中で、罪びとの代表とされていました。周囲の人々から神の救いに程遠い人間と考えられ、自分自身でも救われる可能性はないと思っていたような人々でした。洗礼者ヨハネのメッセージは、このような人々に希望を与えました。「すべての人は今回心しなければならない」ということは「どんな人でも今回心すれば救いにあずかることができる」という福音です。洗礼者ヨハネが「義の道をしめした」とは悔い改めて、洗礼を受ける道でした。正しい行いをするという以前に、何よりも自分の罪深さを認め、神に立ち返る道です。イエスもこれこそが神との正しい関係のあり方だと言うのです。

 それとは逆に、当時の社会・宗教の指導者たちはヨハネのメッセージに心を動かされませんでした。彼らは洗礼者ヨハネの悔い改めのメッセージを悪いものだとは思わなかったでしょう。しかし「自分たちは正しい」と考えた人々は、洗礼者ヨハネの悔い改めの呼びかけを自分たちに向けられたものとして受け取らなかったのです。「悔い改めなければならないのは自分たちではなく、他の連中だ」と考えたとき、彼らは自己満足と優越感の世界に陥り、生ける神との関係も、人と人とのつながりも見失ってしまったと言わざるをえません。「あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(32節)の「それ」は「徴税人や娼婦たちは信じた」ということです。言い換えれば、神に対する信頼と希望を取り戻していった姿を見たことです。ファリサイ派のユダヤ教指導者たちから彼らは罪人であって、軽蔑された人でありました。

 人々から軽蔑されたままの状態で、ありのままで憐れみ深い神に受け入れられるのです。神は彼らの存在そのものの尊厳と自由を守ってくださいました。わたしたちにとっても神からの呼びかけはいろいろな形で来ているはずです。聖霊なる神が働いて下さり、神のことばである聖書を通して神はわたしたちに呼びかけています。具体的にはイエスを遣わしてご自身の愛を現わしてくださいました。今この世界に起こるさまざまな出来事も神からわたしたちへの呼びかけなのではないでしょうか。神の呼びかけの声を聴いてみませんか。