説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年9月13日(聖霊降臨後第16主日 ) 

神の救いの広さ深さ          

マタイによる福音書20章1-16

 

 このぶどう園の労働者のたとえ話は共観福音書のなかでもマタイによる福音書だけが伝えるものです。このマタイの20章16節と19章30節の結びの部分には、「先の者は後になり、後の者は先になる」という同じ言葉があります。それは、直前のマタイの19章16節から始まる「金持ちの青年のたとえ」です。その27節をみてみますと、ペトロはイエスに向かってこのように言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」。これに対してイエスは「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受ける」と弟子たちに大きな報いを受け、永遠の命を受け継ぐことを約束しますが、それと同時に30節の「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という言葉が語られました。

 きょうの福音のたとえ話は、本来は、ファリサイ派の人や律法学者に向けて語った、と考えることができるでしょう。「自分たちは神に対して忠実に生きてきた、生きている」と考えるファリサイ派は朝早くから働いた人で、イエスのメッセージを聞いて回心した異邦人、徴税人や娼婦、小さくされた人たちであり、最後の一時間しか働かなかった人ということになります。

 たとえを見ていきましょう。「天の国は、ある家の主人がぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」と神の国の支配のたとえを語られました。主人は一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送りました。「1デナリオン」は当時の1日の日当であると言われますが、それは同時に「人が1日生きていくために必要なもの」だとも言えます。主人は9時ごろ、「あなたたちもぶどう園にいきなさい、ふさわしい賃金を払ってやろう」と言いました。12時ごろと3時ごろの人にも同じようにしました。最後の5時ごろの人には「あなたたちも、ぶどう園に行きなさい」と言いました。夕方になってぶどう園の主人は監督に「労働者たちを呼んで、最後に来たものから始めて、最初に来たものまで順に賃金を払ってやりなさい。」と言いました。ただ、このたとえ話では、朝早くから働いた人が最後の人に1デナリオンずつ渡されるのを見ていたことが話の展開上、重要になっています。

 この賃金の支払は、陽の沈む前に支払わねばならないと申命記24:15に規定されていますが支払いの順序が良く工夫されています。もし朝から働いた人が先に賃金をもらえば、彼らは初めから1日1デナリオンの約束でしたので、それをもらって満足して帰ったことでしょう。しかし、彼らは、たった1時間しか働かない人が1デナリオンもらったのを知ってしまいました。そこで自分たちはもっと多くもらえるのが当然だ、という期待を抱くことになりました。その期待が不公平であるという不満を抱くようになったのです。

 不平を言った労働者は朝の6時から6時まで12時間働きました。イスラエルのぶどうの取入れの季節8月頃ですがパレスチナ地方の夜は涼しいのですが、わたしはイスラエルに行ったのが8月下旬でしたが照り続ける日差しはきつかったことを覚えています。だからあの炎天下の12時間労働は厳しいものです。

 わたしたちは、このたとえ話を聞くと、主人のやり方は間違っている。おかしいのではないか、と感じるのではないでしょうか。労働に対してはそれに見合う正当な賃金が支払われるべきであるという思いがあります。その前提に立てば、この主人のやり方は確かに不当だと言わざるをえないでしょう。

 しかし、天の国は、神の支配は現実の社会のものとは違います。現実の社会の体験に当てはめられません。それは、人間的な尺度で発想するものの限界です。この主人は、1時間しか働かなかった人にも「同じように払ってやりたい」というのです。主人は、最初からずっと自分のために働いたこの人々に何かを伝えるために、わざとこのようにしたのだとも言えるでしょう。実際、イエスはファリサイ派であれ、自分に忠実な弟子たちであれ、ペトロはイエスに向かってこのように言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。ペトロのように「自分はこんなに苦労して働いてきた」と思っている人に向けてこのたとえを語ったのです。

 しかし、一所懸命働いてきたことが問題になっていません。長い時間働いたことも問題になっていません。
ただ「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という主人の心を分かってほしい、と語りかけているのではないでしょうか。

 神はすべての人が生きることを望まれ、すべての人をいつも招いてくださる方だからです。

 ここでの問題は、人間の働きばかりに目が行ってしまうあまり、人を生かそうとする神の大きな愛を見失うことです。もう一つの問題は、人と人との比較にばかり目が行ってしまい、人をさげすんだり、逆に人に嫉妬する世界に落ち込む、ということです。きょうの箇所で朝早くから働いた人の陥った問題はまさにこれでした。夕方まで仕事がなく、立ち尽くしていた人に視点をおくと、神の愛に気づくことができます。わたしは、洗礼を受ける前の夏休みだと思うのですが1966年だったと思います。教会から派遣され釜ヶ崎のこどもたちの学童保育の手伝をしていました。早朝、手配師のような人が建設現場の人集めに来ていました。体力のありそうな人から車に乗り込んでいました。だから⒊割ぐらいの人がアブレていました。ぶどう園の労働者のたとえから半世紀以上前の光景を思い出しました。

 7節で「だれも雇ってくれないのです」という叫びは、わたしたちの身近にもあるのではないでしょうか。人間にとって、色んな理由で「あぶれてしまった」、残ってしまった小さい人です。「だれも雇ってくれない、だれからも必要とされていなかった」という人の立場からこのたとえ話を読めば、これはまさにイエスの小さくされた人々に視点を置く福音そのものです。
 主人にとっての正義は最後のものも同じように扱うことにあります。神の気前の良さをねたむために神の恵みを見落としました。人間が考える正義とは違います。ファリサイ派は、どれだけ多くの掟を守るかによって救いを考えますが、神は掟を守れない罪人をも同じように救ってくださいます。きょうの福音は、そういう価値観からわたしたちを解放し、もっと豊かな生き方へとわたしたちを招いているのではないでしょうか。