説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年9月13日(聖霊降臨後第15主日 ) 

神に赦された人として、共に生きる         

マタイによる福音書18章21-35

 

 マタイ18章には、信仰共同体についての教えが記されていますが、イエスとペトロの対話が続いていきます。先週に引き続き赦しがテーマになっています。
きょうの福音は、21節で「兄弟がわたしにたいして罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか、7回までですか」とペトロがイエスに問いかけから始まります。

 「7」という数は「完全さ」を表す数だと言われています。7回どころか70倍赦しなさい。「7の70倍」は「490回まで」という意味ではなく「無限に」という意味です。

 この部分はルカ17章4節にもあることから、マタイがイエスの語録集から入手したものと言われています。ルカでは、悔い改めの方に向かいますが、マタイでは、赦しの方へ話を進めます。ペトロは赦しにおいて7回までと回数を設定して赦すことの限界を述べています。わたしたちの赦すことの発想と同じです。しかし、イエスは無限に赦すべきだと教えています。

 ユダヤ教では、神は人間に対して3度までなら赦してくださると考えていました。だからイエスの言葉は驚くほど大きな寛容を教えました。これはイエスの神理解でした。神の人間に対する寛容を対人関係において実現させようとした言葉です。

 イエスは、そこで天の国はつぎのようにたとえられる、と教え始めました。
「ある王は家来たちに貸した金の決済をしようとした。1万タラントン借金をしている家来が王の前に連れて来られました。返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻や子も、また持ち物すべてを売って返済するように命じました。それに対して家来はひれ伏して「必ず返しますから」とお願いしました。すると主君は深く憐れまれて、借金を帳消しにしてやりました。

 ところが家来が外に出て、自分に100デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と攻めました。仲間はひれ伏して「待ってくれ、返すから」としきりに頼みました。しかし、承知せずに仲間を牢に入れました。仲間たちは、このことに心を痛めて、主君の前にでて、事件の次第を事細かに告げました。主君はその家来を呼びつけて言いました。「不届きな家来だ、お前が頼んだから借金を帳消しにしてやった。お前は赦すべきではなかったのか」、そして、主人は怒って家来を牢役人に引き渡しました。
 ここで借金の金額に視点を移して考えてみますと、1デナリオンは当時の労働者の1日の日当に当たります。1タラントンは1デナリオンの6000倍にあたると言われています。つまり、この家来の主人に対する負債の1万タラントンは、自分が仲間に貸したお金の100デナリオンの60万倍ということになります。とんでもない額になります。仲間に貸した100デナリオンという少額と主人が貸した1万タラントンという返済不能な数字を用いているのは対比を表わすためでしょう。これは神のはかりしれない赦しの大きさを表わしています。

 ここで「主君」と訳されている言葉はギリシア語では「キュリオス」で、通常は「主とか主人」と訳される言葉です。「家来」のほうは「ドゥーロス」で、通常は神に対して「奴隷・しもべ」と訳されています。王に対して、「家来・臣下」、この主君と家来の関係が、神と人との関係のたとえであることは明らかです。
 32節からの主人の深く憐れんでやるべきではなかったか、という言葉に戻りましょう。これは借金を帳消しにすることをたとえを用いて「罪のゆるし」について語られたものです。借金を帳消しにするというのは、現実の社会の中にある「倒産しそうな会社のための債権放棄」や「過大な債務に苦しむ貧しい国のための債務帳消し」も、同じように「その企業や国を生き残らせるため」というのがその帳消しにする理由です。神は人間が罪のために滅んでしまうのを望んでいません。このたとえにあるきょうの重要なテーマである兄弟への深い憐れみから来る共感です。主人は「あわれに思って」というのは、ギリシア語では「スプランクニゾマイ」で、目の前の兄弟姉妹の苦しみを見て、自分のはらわたが千切れるという、深い共感を表す言葉です。なぜ神が人の罪をゆるすのか、その答えはここにあります。罪のゆるしが「借金の帳消し、負債の免除」のたとえで語られる理由はおそらく、ゆるしが相手を生かすことであることと、ゆるされる喜びの大きさを強調するためといえるでしょう。「どうしてもあの人だけはゆるせない」「ゆるしてはいけないことだってあるはずだ」という思いを抱くことがわたしたちにはあります。悪いことをした人が反省も謝罪もせず、のうのうと生きているように感じるとき、特に強くそう感じることでしょう。これは当然のことです。

 しかし、きょうのたとえ話で「ゆるし」とは一方的に借金を帳消しにしてやるという以前に、その人の罪の痛みへの共感から相手を生かそうとすることでした。そして、ゆるされた人が仲間をゆるさなかったのは、彼がゆるされた事実だけを受け取り、ゆるしてくれた主君の心を受け取らなかったからだとも言えるでしょう。「どうしてもゆるせない」と感じるような現実の中で、それでも神のゆるしの心を受け取って生きようとするとき、わたしたちにできることは何でしょうか。神との絆を自ら断ち切る者には、神の怒りが襲いかかるでしょう。わたしたちは、罪という借金を返済することができません。神は一方的に深い憐れみをもって十字架への独り子引き渡し、罪の代かを支払ってくださいました。わたしたちは、今は神の深い十字架の赦し心を受け止めて生活することができます。兄弟姉妹を、神に従う仲間を失うことの痛みを感じて、「心から赦す」者となることができるのは、その人の罪の痛みへの共感から相手を生かそうとすることでした。相手を生かすことを考えて歩んでいきましょう。