説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年8月30日(聖霊降臨後第13主日 ) 

自分を捨て、命の道を歩む       

マタイによる福音書16章21-27

 

 きょうの福音は、先週の「ペトロが弟子を代表して、「あなたはメシア、生ける神の子」と告白したことを受けて、イエスは「受難と復活」を予告します。「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに告げます。これは最初の「受難と復活の予告」であります。イエスの活動は貧しい人や病人に大きな希望と励ましを与えましたが、逆にイエスを苦しめる相手は「長老、祭司長、律法学者たち」でありました。

「このときから始められた」のは、マタイ4章17節のイエスは「天の国は近づいたから悔い改めなさい」と悔い改めを宣べ伝えていましたイエスの活動が、16章21節からの「この時から新段階に入っていきます。メシアの受難と死を認めることができないペトロは、イエスを脇へ連れて行っていさめます。すると、イエスは振り向いてペトロを戒めますが、この場面をマルコの並行箇所(8: 33)と比較しますと、無視できない違いがあることに気づきます。マルコは「イエスは振り返って、そして見てペトロを叱った」と描いています。まず、マルコの「ペトロを叱った」をマタイは削除しています。さらに、「彼の弟子たちを見て」も削除しています。マルコの表現は、ペトロが弟子のあるべき位置から離れたことを暗示しています。本来、弟子はイエスの後に従うべき存在ですがペトロはイエスを脇へ連れて行っていさめたことによって、彼は弟子の位置から外れています。マタイは、マルコからこの二つの表現を削除することによって、ペトロに対するイエスの態度の厳しさを和らげようとしているようです。

 また、マタイはマルコの「振り返って」を「振り向いて」に変えています。この「振り向いて」は、22節で「ペトロはイエスを脇へ連れて行き、いさめ始めた」とあります。これはペトロが脇へ連れて行った時点で二人は向き合っているという情景を思い浮かべることができます。
「いさめる」は「非難する」の意味でも使われます。イエスと生活を共にする弟子たちも、イエスが誰であるかを完全には理解できていませんでした。

 だからこのペトロはイエスが進む道に立ちはだかりそれを阻止しようとします。ペトロはイエスに「恵みがあなたに」と言いますが、これは「神があなたに寛大であるように」を意味します。そこから「そのような事が起こらないように」とか、新共同訳では「とんでもないことです」の意味で使われています。
ペトロはイエスについて「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しましたが、イエスが「苦しんで、殺される」メシアであることは納得できませんでした。むしろ、神の慈しみがメシアであるイエスを守るはずだと考え、「(神の)慈しみがあなたに」といさめました。
 いさめるペトロに対して、イエスは「サタン、私の後ろに引き下がれ」と言います。この「サタン、引き下がれ」は、かつて、荒れ野の誘惑の場面で語られた「退け、サタン」(マタイ4章10節)とイエスに国々の栄光を示して誘惑した悪魔にイエスが語った言葉です。イエスが十字架へと歩むのを押し止めようとしたペトロは「サタン」であって、「引き下がりなさい」とたしなめられます。しかし、ペトロに対しては、悪魔のときとは違って、「私の後ろに」という言葉が加えられています。イエスは漁師のペトロと最初に出会ったとき、「わたしについて来なさい」と呼びかけました、弟子であるペトロは、サタンのようにイエスが進む道に立ちはだからずに、イエスの後ろに回って従うべきである、ということでしょう。
「あなたはわたしの邪魔をする者」、教えから離れさせたり、信仰を失わせたりする誘惑を表します。十字架にのぼるメシアを理解できずに、それは「とんでもないことだ」と述べたペトロは、イエスにとって「サタンの誘惑」なのです。
 神のことを「思わず」、人間のことを思っているとイエスがペトロを叱りました。神に従うか、人間に従うかによって、その人のありようは全く変わります。ペトロはメシアの受難の必然性を理解しないで、イエスの前に立ちふさがることによって、人間に従う道を選んでしまっています。
 そこで、イエスは弟子たちにいいます。「わたしについてきたい者は、自分を捨て」、つまりイエスの後に従うために、自分を完全になくす者が弟子なのです。さらにイエスは「彼の十字架を取りなさい」と命じます。ここでの十字架は「キリストが開いた道」を象徴的に表しています。自分を「否定して」捨てるのは、十字架を「取る」ためであります。イエスに「従って」歩むためであります。「イエスの開いた道に従う」ことが弟子の取るべき態度であると、その根拠を教えます。それは、失ってもよいいのちと、見いださねばならない「いのち」があるということです。ただし、「私のために」いのちを失うとき、生けるべきいのちを見いだすことができる、約束されました。
「私のために」失って、見いだすことのできた新しい「いのち」は、全世界よりも重い価値を持っています。
 パウロはそれをフィリピ3:6-7で「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」と述べています。主イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失であった、と述べています。
 自分を捨て、新しい命に生きるというとき、人間のありようを決める「思い」があります。それは「神のことを思う」のか、「人間のことを思う」のか、二者択一の形で人間の前に置かれています。神のことを思う者は、自分を捨て十字架を背負いますが、それこそが「いのち」への道なのです。
 最終的な神の裁きを信じながら、今、目先の利害に振り回されず、神に対する信頼を生き抜いた主イエスに従うこと。それはまた、十字架に向かって歩むイエスご自身の歩みでもあったと言えるでしょう。しかも、この「いのち」の確かさは終わりの日に再臨するイエスによってなされるのです。これがわたしたちに示されたイエス・キリストの福音ではないでしょうか。