説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年8月16日(聖霊降臨後第11主日 ) 

カナンの女の信仰―神の計画に従う     

マタイによる福音書15章21-28

 

 先主日は、湖上に沈みかけたペトロに対して、「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」というイエスの励ましがありました。
きょうの話の直前の箇所で、イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わずに食べることが人を汚さない、心から出るものが人を汚すという、ファリサイ派・律法学者とイエスの間で「清め」に関する議論が起こっています(15章1-20節)。ファリサイ派・律法学者は神の律法を熱心に守ろうとしたユダヤ人でしたが、もっとも大切な神のみ心を見失っていました。
きょうの福音は、イエスが「ティルスとシドンの地方」へと退きました。ティルスは地中海に面したフェニキアの町で、カルメル山から 55キロほど北にあります。シドンはティルスの北方 35キロに位置するフェニキアの港町です。両方とも異邦人の町です。サレプタはティルスとシドンのほぼ中間ぐらいにあります。

 創世記 12章5節によれば、カナンとはヨルダン川の西側の地を指しています。ここでは、「その地域出身のカナンの女」と述べています。イザヤ書23章11節では、ティルスとシドンの地方出身の女性を 「カナンの女」と呼んでいます。
次に登場するのが、この人々の正反対とも言える人、ファリサイ派や律法学者から見れば「神を知らないはずの」異邦人の女性です。22節で彼女は「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」と呼びかけます。
「ダビデの子」はイスラエルの王を表す言葉です。「ダビデの子」という称号をイエスに用いたのは、主にパレスチナに住むユダヤ人キリスト者でした。これに対して、「主」という称号はパレスチナを越えたヘレニズム世界のキリスト者によって用いられていました。このカナンの女性はイエスを「主よ、ダビデの子よ」と呼び、二つの称号を一つに合わせています。このことは、ユダヤ人の大多数が否定した「イエスはメシアである」という、信仰を表明しています。イエスは、最初イスラエルに遣わされたメシアでありました。(マタ15: 24- 26 以下)、当時のユダヤ人キリスト者の共同体だったマタイの教会の中には異邦人を排除するという考え方がありました。

 そこへ「私の娘がひどく悪霊に憑かれている」とカナンの女性は叫びます。23節では、一言も答えないイエスに弟子が近づいて、「彼女を去らせてください」と頼みます。イエスは彼女の願いを拒否し続けています。24節のイエスの「イスラエルの家の失われた羊以外のところには、私は遣わされていない」といいます。病気からの解放を願うカナンの女性と彼女に同情する弟子に対して、イエスは自分がただの奇跡を行う者ではないことを示しています。イエスは神に忠実な「神の僕」であることに固執します。イスラエルが救われた後、救いが異邦人へ、もたらされるという神の計画に従って、イエスは行動しています。

 マタイ 10章6節に、イエスは弟子に「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と命じています。弟子の派遣命令と同じ内容が、ここではイエス自身の派遣に関して述べられています。

 イエスが目にしていたイスラエルの人々の現実はそこから程遠いものでした。神殿での祭儀を重んじたり、律法を事細かに守ろうとしたりする当時のユダヤ宗教のあり方は、多くの貧しい人を「失われた羊」(24節)にしてしまいました。「失われた羊」はエゼキエル34章4-6節の「悪い牧者のイメージです。

 25節でカナンの女性が来て、ひれ伏しました。この行為は「跪いて礼拝する」ことを意味します。カナンの女性はひれ伏した上に、「主よ、私を助けてください」と願います。彼女の叫びは詩編44編24以下の祈りの中にも見られます。「なぜ、あなたは顔を隠されるのか/悩み苦しむわたしたちを忘れられるのか 26節立ち上がってわたしたちを助け/ あなたの慈しみで贖ってください」。と。
イエスは「子どもたちのパンをとって、小犬にやってはいけない」と答えられました。「子ども」はイスラエル民族を指し、「小犬」は異邦人を指します。犬は今ではペットとして愛されていますが、聖書の中では忌み嫌われる動物でした。ユダヤ人にとって「犬」はひどい侮蔑を込めた表現です。ラビたちは律法を知らない人々を「犬」と呼んでいます。

 イエスのこの頑なな態度はどのように解釈されるべきだろうか、考え込んでしまいます。 イエスの言葉は弟子とカナンの女性に向けられていますが、同時にイエスご自身に向けられています。イエスは、「自分はイスラエルにのみ遣わされている、イスラエルに与えられる救いを異邦人に与えることは良くない」ということを、自分自身にも言い聞かせています。カナンの女性の望みをかなえてやりたいのですが、異邦人の救い以前にイスラエルが救われなければならないという神の計画に従って、イエスは行動しています。

 カナンの女性はユダヤ人の救いを優先するイエスの方針に「主よ、ごもっともです。」と同意して、自分の求めていることがイエスの主張と矛盾しない理由を述べています。「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑をいただくのです」と機知にとんだ発言をしています。イエスは彼女の主張に対して、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と認めました。この部分を直訳しますと「おお、婦人よ、大きい、あなたの信仰は」となります。「おお、婦人よ」はここでは感嘆を込めた呼びかけです。また「大きい」という形容詞が主語(あなたの信仰)の前に置かれて、強調されています。カナンの女性は「子どもたち」を「主人」と言い換え、神の思いに従う者であることを示しています。その信仰がイエスによって称賛されることになりました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」そのとき娘の病気は癒されました。

 今日の箇所のポイントは、イエスの弟子や最初のキリスト者は皆ユダヤ人でした。初代教会にとって異邦人をどのように受け入れるかは、大きな問題でした。イエスにとってもそうだったのでしょう。「信仰はまずユダヤ人のものである」という考えがあったとしても、現実にユダヤ人でないカナン人が信仰を示しました。この人間との出会いによってイエスの心は変えられました。イエスにとって自分の宣教計画ではなく、大切なのは目の前の人間だったと言えるでしょう。このできごとがやがて始まる民族や文化的背景の異なる異邦人伝道の先取りとなりました。人とどのように出会い、どのように理解し合い。目の前にいる人にどのように向き合うか示しています。小さくされた人にどのように関わっていくかが大切です。