説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年7月26日(聖霊降臨後第8主日 ) 

天の国のたとえ   

マタイによる福音書13章31-33、44-49a

 

 きょうの日課は、マタイ13章1節から始まった天の国についてのたとえ話集の結びの部分にあたります。山上の垂訓から始まる天の国の第三垂訓で神の国の秘儀を語られています。毒麦、宝、真珠商、網のたとえはマタイだけが伝えるものです。
 ここで一貫しているのはすべてを売り払っても、天の国を手に入れたいと願う ということです。31節でイエスは、天の国についいて、別のたとえを持ち出して弟子たちに語り始められました。

 「天の国はからし種に似ている」「大きくなると空の鳥が巣をつくるまでになる」というのです。黒からし種は直径1o〜1,6oぐらいの小さいものです。
すり潰してからしにするだけではなく、種油の原料にもなったと伝えられています。成長すると空の鳥がきて巣をつくるほどになる。と言われます。からし種は成長すると1メートルから4メートルにもなり、茎は太く、秋になると茎や枝は固くなり、小鳥の重さに耐えられるほどになルそうです。
33節で、天の国はパン種に似ているという話が出てきます。「女がこれを取って
3サトンの小麦粉に混ぜると膨らむのである。」パン種は、悪の力の象徴として用いられてきました。旧約聖書の出エジプト記12章15節以下に記されています。「あなたたちは7日の間、種なしパンを食べなさい」出エジプト23章18節に「わたしのいけにえの血を種入りパンとともに献げてはならない」ものとして表されています。
 新約聖書ではマタイ16章5節で、「パリサイ派のサドカイ派のパン種に気を付けよ」パン種とは広がるものであるからパリサイ派とサドカイ派の教えに気を付けよ。と注意を促しています。しかし、ここでは天の国の広がりについてイエスは語っています。この二つの「種」は、小さいものであることが共通しています。
 天の国は、からし種やパン種のように、今は人の目に気づかないほど小さなものでありますが、やがて誰もが目を見張るほど大きなものに成長します。小さな種粒は鳥が止まるほどの枝を張るようになり、パン種は小麦全体を膨らませます。ここで、からし種とパン種のたとえを語るのは、人の思いを超えた神の計画を示すために神の国の秘められた力を信じるように諭されています。
 次に44節以下の三つのたとえは、13章の「天の国」の譬えのまとめの部分になります。「畑に隠された宝」と「高価な真珠」のたとえは、からし種とパン種が対になって語られていますように、このたとえも対になっています。
 最初のたとえでは、なぜただの宝ではなく、「畑に隠された宝」なのでしょうか。「見つけた人」は小作人で、たまたま主人の畑で働いているときに宝を発見したということでしょう。畑を買わなくとも宝だけを持ち去ればよいのではないか、しかし、彼は畑そのものを手に入れます。そこにどんな意味が隠されているのでしょうか。次のようなことが考えられます。宝を発見したとき、小作人ではなく自立した農民になることでした。すなわち畑を買うことが目的で宝はその手段だったのでしょう。また、商人は、高価な真珠を探し求めています。見つけると、持ち物をすべてこの高価な真珠に買い替えました。
 畑を買う人も、真珠を買った商人も共に、持ち物を「売る」という同じ行動をとっています。その人が貧しい小作人でも、豊かな商人でも、求めるという努力をした結果であっても、天の国は持ち物すべてを売ってでも手に入れたいと願うほど「貴重な」ものであり、人に「喜び」をもたらすのです。このたとえは、「畑に隠された宝」「高価な真珠」が「天の国」だということになります。わたしたちにとって、すべてを売り払ってでも手に入れたいものとは何でしょうか? 
 47節では、天の国は、次のようにたとえられる。網が湖に投げ下ろされ、あらゆるものを寄せ集めます。いろんな種類の魚と解釈できます。網がいっぱいになると、岸に引き揚げます。これは投網ではなく、引網です。1960年代ごろまでこの泉州の地でもよく行われていた地引網の漁法です。
その網が岸辺に引き上げられると、良いものは入れ物へ選り分けられ、不適当なもの、邪悪なものは外へ投げ捨てられます。
今、天の国はあらゆる魚を寄せ集める網のように、すべ手の人を包み込んでいます。しかし、その中には「不適当なもの」がいる。「不適当なもの」は、48節では「悪い者」と言い換えられています。
「畑に隠された宝」と「高価な真珠」のたとえとの関連で読むなら、ここでの「悪」とは倫理的な悪ではなく、持ち物すべてを売り払ってでも手に入れたいと人が願う「天の国」に気づかないことだと考えられます。
 網が湖に投げ降ろされる漁のたとえは、明らかに47-48節と49節に分けられ、後半は前半の説明のようになっています。
また、内容は、先週の毒麦のたとえ(24-30,36-43節)とよく似ています。終末の裁きのとき、毒麦を集め束ねて、火に投げ込まれる話でした。「天の国」とは、人々を取り巻くあらゆる出来事に関係して、現れている神の働きという現実があります。それに気づかない人は、世の終わりに歯ぎしりして泣くことになります。わたしたちは、イエスを通して、イエスの言葉と行いに現わされている神の支配に気づくこと、それがきょう示されている神が求めておられる信仰であり、正しさであります。主に、天の国の恵みに与ることができますように祈り求めていきましょう。