説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年7月12日(聖霊降臨後第6主日 ) 

種まきの譬え  

マタイによる福音書13章1-9、13-23

 

 きょうの13章のたとえ話は、イエスの教えが簡単には受け入れられなかったという現実の中で、それでも天の国(=神の国)は力強く成長していることを確認することといえるかも知れません。イエスはたとえを「舟から」語ったとしているのは、「舟に座るイエス」と「岸の上に立つ群衆」とを対比することによって、イエスの教えを理解しない群衆との隔たりを描こうとしたのかも知れません。「座る」は、伝統的に律法学者やラビが生徒に教えるときの姿勢であったようです。それに倣ってイエスも同様に教える時に「座る」という姿勢をとっていたようです。イエスが舟から語った言葉は、理解できる者には天の国の奥義を明かす「たとえ」となりますが、理解できない者には「謎(たとえ)」で終わってしまいます。イエスはたとえを用いて多くのことを語られましたが、きょうは種まく人のたとえが日課として選ばれています。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(3節)蒔いている間に「道端に」「石の上で土の少ないところ」「茨の間に」に落ちた三種類の「種」のことが述べられています。なぜ種をまいて、色んな所に落ちるのでしょうか。

 わたしたちは不思議に思うのは、この種まく人のやり方です。日本の農民は、決してこのような種の蒔き方をしないでしょう。畑の土をきちんと耕して「良い土地」にしてから、蒔いた種が無駄にならないように、丁寧に蒔きます。耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるのが普通の種の蒔き方でしょう。

 パレスチナではまず土地一面に種を蒔きます。その後で耕すのが普通でありました。その土地を掘り起こすように耕していきます。道端の「道」は、刈り入れた後の農閑期に村人が行き来するうちに道ができものでありますが、それも耕されて農地に変わるのです。それを分かっているので、種まく農夫は「道」にも種を蒔きます。また蒔くときに多少石ころがあろうとも、茨が生えていようとも、すぐに耕されるので、気にすることなく種を蒔きます。

 なぜこの方法なのかと言えば、パレスチナでは日差しが強く、種を地中深くに入れなければすぐに干上がってしまうとのことです。このような種まきは日本の伝統的な農業から見れば、無駄の多いやり方に見えます。しかし、このように種を蒔くことによって最終的には豊かな実りがもたらされるのです。
3-4節に「蒔く」という動詞が3回用いられています。「蒔いている者」は現在分詞なので、ここでは動作の継続や反復を表します。「ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」(4節)とあります。「石だらけで土の少ないところに落ちた、土が浅いのですぐ芽をだした。」しかし、日が昇ると焼かれて枯れた。」(6節)茨の中に落ちた種は、茨が伸びて「ふさいだ」と訳されている語は「窒息させる・絞め殺す」の意味があります。だから茨によって新芽が窒息させられたのです。そして、「良い土地に落ちた種は100倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなりました」(8節)イエスの直弟子による宣教を高く評価しています。

 いずれにしても、マタイ にとってこのたとえは二通りの意味を持っていました。一つは、教会内にはさまざまな信者がおり、その全員が豊かな実を結ぶのではなく、蒔かれた種(御言葉)を台無しにしてしまう者もいるという現実を認識したうえで、その反省であるのです。もう一つは、農夫が途中で諦めることなく種を蒔き続けるように、宣教者も挫折しないで、あきらめないで天の国を告げ知らせることに励まねばならないということです。
 18- 23節の「たとえ」の解釈は、イエスではなく、原始教会による寓喩的解釈だろうと考えられています。寓喩的解釈とは、たとえに登場するいくつもの要素があります。たとえば「道端に落ちた種」とか、「鳥」とかが、それぞれ何にあたるかを解き明かすような仕方の解釈のことです。しかし、イエスが語ったたとえの特徴は、たとえ全体がある一点に鋭く集中するということにあると言われています。だから18-23節がイエスによる解釈ではないとされています。もう一つの理由は、3-9節のたとえでは、さまざまな種の運命に焦点が当てられているのに対して、18-23節では、種(御言葉)そのものではなく、種(御言葉)を蒔かれた人間の側の運命に焦点が移されていることです。そこで、18-23節の寓喩的な解釈は、イエスの「たとえ」を教会生活上の戒めとするために、原始教会が行った再解釈の結果だというのは定説になっています。

 原始教会の人々の理解が、18-23節で語られているように、イエスの言葉を聞いても、聞く姿勢が良くなければ、実を結ぶことができない、と述べられています。それはキリスト者たちがいつもイエスの言葉を今の自分たちにとって、生き方の指針となる言葉として受け取ろうとしたためです。そして、たとえ話には新たな状況と新たな解釈が付け加えられるようになっていった。というふうにマルコ以前の初代教会の解釈が語られていきます。

 19節で、「誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれた者ものを奪い去る」。すでに蒔かれていた種が今もそこにあったことを表していますが、それが奪い去られるのです。これが道端に蒔かれた人の姿です。21節で、石だらけの人の所に蒔かれたものは、み言葉を聞いてすぐ受け入れるが、根がないので、すぐにつまずいてしまう人のことを述べています。
22節で茨の中に蒔かれたものは、実らないと述べています。
「群がって窒息させる」( 22節)は、茨が麦を窒息させるように、世の煩いや誘惑が霊的な生活を完全に窒息させてしまいます。

 イエスは種蒔きのたとえを使って、諦めずに豊かな収穫を信じて宣教するようにと、弟子を励ましました。イエスのたとえを伝承した教会は、たゆまずに宣教するイエスの姿から、自分たちの姿を省みて、たとえを解釈しました。それによって、御言葉を宣教する者のたとえは、御言葉を聞いた者のあるべき姿を教えるたとえとして読まれることになったのです。

 だとすると、本来のこのたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が良い土地かどうかではなく、むしろ、大きな収穫に信頼し、希望を持って、忍耐して種蒔く人のほうにあると言えるのではないでしょうか。宣教活動はすぐには目に見えるような華々しい成果をあげるとは限りません。イエスは弟子にも群衆にも「たとえ」を話しますが、弟子には天の国の奥義を明かす真理の言葉となりますが、群衆にとっては「たとえ=謎」となってしまいます。この違いは、「天の国の秘密を悟ること」へと開かれているかどうかにかかっています。この「種蒔く人」は、人間的な反対や抵抗にあっても、わたしたちが、わたしたちの置かれた状況の中でこのたとえ話をどう受け止めるか、なのです。イエスは誰に対しても分け隔てなく、天の国の秘密を明かす「たとえ」を語っていますが、神に心を閉じている者にはそれが「謎」に終わってしまう。しかし、神に心を開くなら、ますます多くのことをイエスから学ぶことができます。たゆまず天の国を宣教するイエスの姿を見つめる教会は、イエスのように神の言葉を信頼し、身を任せて生きるようにと励ましています。