説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年7月5日(聖霊降臨後第5主日 ) 

わたしのもとに来なさい 

マタイによる福音書11章25-30

 マタイによる福音書第11章では、イエスとは何者かと問う洗礼者ヨハネや今の時代を広場に座って、他のものに呼びかけている子どもたちに似ているという譬えを話されました。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ,大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ』という」(18-19)それからイエスは数多くの奇蹟の行われた町々が悔い改めなかったので、イエスを受け入れなかったガリラヤの町々の人々をお叱りになりました。確かに当時もイエスを受け入れた人々と受け入れなかった人々がいたのです。

  きょうの福音は、11:1-24のような状況の中でのイエスの祈りと、ガリラヤの人々に対する招きとして聴くことができるでしょう。イエスは神を賛美し、全幅の信頼をもって「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」というイエスの祈りが始まります。ここでは「知恵ある者や賢い者」がイエスを受け入れない人で「幼子のような者」がイエスを受け入れる人であると言われています。当時の人の知恵や賢さは律法に関する知識を意味していました。それは御心に叶うことでした。「幼子のような者」とは貧しく無学な人々のことを指していました。幼子は「無知な者・無能力者」の代表であります。逆に世間で評価されているファリサイ派のような人がイエスを受け入れず、世間的な評価を受けない人々がイエスを受け入れたというのが現実だったのです。イエスの活動はこの世的な人間の眼で見れば、成功しなかったという見方もできるかもしれません。しかし、イエスはこのことの中に神の計画の実現を見ていました。

 イエスはユダヤ人から拒絶され、神を賛美することは、遠くかけ離れているような状況に置かれています。11章17節には、今の時代を何にたとえたらよいか。と、広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子どもたちに似ている、と言います。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった』とあります。これは、「結婚式ごっこ」とか「葬式ごっこ」への誘いを無視されたことをなじる子どもの遊び歌であると言われています。

 日本のわらべ歌や遊びの歌にも残酷なものが多く残っていますが。イエスはこの歌を引用することによって、洗礼者ヨハネとイエスが「天の国が到来する」ことを告げましたが、人々が無視していることを現しています。また、11章20-24節では、イエスは奇跡を見ても悔い改めなかった町を叱りつけました。コラジン・ベトサイダ・カファルナウムはイエスのガリラヤ宣教の中心地でありました。このようにイエスはユダヤ人から拒絶されています。

 しかし、この拒絶は「知者と賢者には隠す」という神の「御心に叶うこと」だとイエスは知っているのです。イエスはそれを知るから拒絶の中にあっても賛美の祈りをささげることができました。イエスが神の意思を知っているのは、イエスが神を表わすものだからです。きょうの旧約聖書の日課、ゼカリヤ9章9節では、娘イオンよ、大いに踊れ、娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ、見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗って。ゼカリヤは前520年代の預言者の言葉ですが、9章以降は語彙の違いがあることから別の預言者の言葉だとされているそうです。だから9章以降を第二ゼカリヤと呼ばれています。

 きょうの旧約聖書の日課、第二ゼカリヤが預言したように、イエスは「柔和で、謙遜な」メシアであります。イエスは人々から理解されなくても、非難を受けるときにも、それは「神が喜ばれること」であると信じ、神を賛美します。イエスが「圧迫されても身を屈めている」ことができるのは、その苦しみには神の計画があると信じているからです。神への信頼がイエスを「苦しみの中で身を屈め、心を低くして神の思いを聞く」者とするのです。イエスが示す「柔和」とは単なる「優しさ、穏やかさ」ではなく、神への信頼から生まれる「折れることのない心」強い信仰があるからです。そのイエスは「私から学びなさい」と命じます。「イエスから学ぶ」ことは、「柔和で、謙遜なもの」、「折れることのない心」のことです。ファリサイ派が与えた軛は人々を圧迫し、苦しめますが、イエスの与える軛は「安らぎ」をもたらします。

 神が自分たちを捨てて、放置しておくことがない、と信じる者には、神が共にいるという「安らぎ」の中で、神によって律法を行うものとなるからです。

 28-30節はこの祈りとその中で得た確信に基づくイエスの人々に対する呼びかけがなされます。28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という有名な言葉があります。有名な、と言いますのは、他の教会の集会案内のメインの聖句として、よく見かけるからです。現代に生きるわたしたちの多くは、どれほどこの言葉を必要としていることでしょうか。現代人の多くは疲れています。肉体を休ませたい、という以上に、心から「ほっ」としたいのです。社会的関係はストレスに満ちています。「軛」というのは荷車や農具を引かせるために、2頭の牛を横につなぐものです。「軛」も「荷」も「重荷」のイメージですが、イエスは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われます。イエスの荷が「十字架」であるならば、とても軽いとは思えません。それなのになぜ軽いと言われるのでしょうか。わたしたちの軛・重荷をイエスが共に担ってくださるから「軽い」のです。イエスに委ねると楽になります。自分で何もかも解決しようとすると、疲れ果てます。信じましょう。イエスさま、半分背負ってください、と祈るとき、十字架のイエスは今も、「わたしはあなたの重荷を共に担う」とわたしたちの荷を担ってくださっているのです。