説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年6月14日(聖霊降臨後第2主日 ) 

弟子の派遣      

マタイによる福音書9章35-10章8節

 三位一体の主日での世の終わりまでイエスが共にいるという勇気づけがありました。本日の福音の箇所の前の段落で、9章からイエスが女性たちへの癒し(18節)、二人の盲人への癒し(27節)、口のきけない人への癒やす(32節)ことによって権能を示されました。10章8節において、信仰共同体としての弟子たちはイエスが行った悪霊を追い出すこと、病気治癒を行う権威をもつことを示しています。
 きょうの福音は、前の段落のイエスがなさった業をまとめる形で、記されています。イエスは町や村々をくまなく回って、ユダヤ教のシナゴーグで教え、御国の福音を宣べ伝えられました。ありとあらゆる病気や患いを癒されました。
「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果てているのをご覧になり、深く憐れまれました。「飼い主のない羊」とは、どういうことでしょうか。
これは民数記27章17節の「死の宣告を受けたモーセが、主の民を「飼う者のいない羊の群」のようにしないでください。と神に祈り、自分に代わる指導者を求めると、後継者に神はヨショアを選び出しました。
 イエスが弟子を派遣する動機は弱り果てた群衆への深い腸が千切れるほどの憐れみがあったからです。イエスの行動の動機はいつも憐れみからであります。
 そこでイエスはご自分の後継者に12人を選び、イエスの教えと業が12人の弟子に引き継がせるために派遣します。その根拠になるのは、モーセが神に後継者を求めました。そしてヨショアを与えられたように、これまでのイエスの教えと業を継承しこの活動を引き続き実践していくことでした。そして、弟子たちを送り出すためにイエスは収穫の主に祈るように教えました。
 働き手とは、神から送り出さる人であり、彼らの任務は神に仕えるという仕事です。「わたしたちは神の協力者、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(Tコリント3:9)「収穫の主」に祈るのは、刈込のためでありますから畑の収穫の比喩は黙示文学の流れで最後の裁きを意味しています。神から送り出される信仰共同体の宣教は終末論的な思想的意味が込められています。そしてこの時点で、イエス自身がメシアとして民衆に直接働きかける段階が終わりました。さらにこの救いの福音をさらに推し進めるために、弟子たちは特別な権威を授けられるのでした。弟子たちは、イエスと同じ任務に就くことを委ねられたのです。これは弟子集団、信仰共同体に与えられたのです。信仰共同体である教会はイエスの働きを継承しているのです。だから収穫の多い畑に、もっと働き手を増やすように神に祈りなさい、と教えられました。
 イエスの宣教のために共同体の中心になる弟子たちを選び出しました。12の数は、イスラエルの部族の数に基づいていると言われています。新しく選ばれた12人の弟子の名は、ルカによる福音書やヨハネ福音書とは少し違いますが、弟子たちの出身地は主に北部ガリラヤ湖周辺の出身者であったのに対して、のちに主を裏切るユダのみが南部出身者であったのです。イスカリオテはユダヤ南部の地名カリオトの出身者である、と伝えられています。
 では、選ばれた弟子たちの出自はどうだったのでしょうか。宣教開始のとき、最初に選ばれた5人の弟子たちから見ていきましょう。マタイ4章18節では、ガリラヤ湖畔を歩いていたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になりました。イエスは、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われました。二人はすぐに網を捨てて従った」と記されています。網を捨てることは漁師である職業を捨てることです。さらに湖畔を進んでいきますと別の二人の兄弟を見つけます。ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。彼らも父と舟を残してイエスに従いました。最初の弟子は四人の漁師でした。次の弟子は、収税所に座っていた徴税人のマタイでした。マタイも「わたしに従いなさい」という命令にすぐに従いました。徴税人とは、ファリサイ派の人々から罪人や徴税人と食事をしていると、避難されるほど蔑視される人たちでした。これがイエスが選んだ弟子たちでした。彼らは社会的に支配者層にいるのでもなく、自由にガリラヤの湖で舟を漕ぎ、網を投げ打つ人たちと民衆から税を取り立て手数料を稼ぐ徴税人だったのです。イエスは、後7人を加えた弟子集団を派遣します。
 マタイによる福音書では、イエスは宣教の対象を「イスラエルの家の失われた羊の所に行きなさい」とイスラエルを宣教の最前線においています。異邦人とサマリヤ人とを後回しにするように指示しています。サマリヤ人は、前8世紀に北王国のイスラエルが滅亡したとき、イスラエル人と異教徒との混血によって生じた民族とされ、正統ユダヤ教徒から軽蔑されてきた経緯がありますが、主要な理由はモーセ五書を奉じながらもゲリジム山に独自の聖所をもって宗教的にはエルサレム神殿から独立していたからだと思います。イエスと同じ権能を授けられた弟子たちは、「天の国は近づいた」と宣べ伝えるように命じられました。きょうの福音では、弟子たちが与えられた権能について具体的に述べられました。病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清め、悪霊を追い出しなさい。値なく与えたのであるから値なく与えなさい。わたしたちにも命じられています。「宣べ伝えなさい」と、宣教は何もかも理解してから出来るできるものでもないようです。というのは私のような未熟なものも宣教の業に遣わされています。語ることによって学んで行くのです。完全でなくて良いのです。先主日のみ言葉に「弟子たちの中には疑う者もいた」のです。疑いが残っていても構わないのです。「父と子と聖霊の名によって、洗礼を授けなさい。」見よ、わたしはいつもあなた方と共にいると励ましてくださいます。