説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年6月7日(三位一体主日・聖霊降臨後第1主日 ) 

弟子たちを派遣する      

マタイによる福音書28章16-20節

 聖霊降臨の主日で復活節は終わりましたが、教会の暦は、大斎節から復活節という約3ヶ月間をかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。きょうの祝日は、「三位一体」という神学的な教えを追究するよりも、主イエスの受難・十字架の死、そして、復活後の主イエスの顕現に出会い、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、神の大きな救いの業を振り返り、父と子と聖霊の働きをじっくりと確認することが大切でしょう。
きょうの福音は、弟子たちは、マグダラのマリアたちを通して伝えられたイエスの指示に従ってガリラヤに行きます。ガリラヤはイエスの宣教生活のほとんどを過ごされた地域であります。弟子たちにとって、復活者と出会う場でもありました。イエスが指示した「山」で出会います。
 これまでのイエスの山での活動を振り返りますと、山はイエスの本性が最も濃厚に顕される場所であったのです。たとえば、幸いの丘ともいわれます山上の説教が述べられた場所でもあります。(5章)また弟子たちの前でイエスの姿が変わり、太陽のように輝いた場所でもあります。(17章)きょうの山の出来事は、弟子たちはイエスにひれ伏しますが、疑う者もいました。これまでも弟子たちは「疑う」ことを通して、ペトロは「あなたはメシア生ける神の子です」(16:16)と信仰告白へと招かれています。ペトロに「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父である」(16:17)。変えてくださるのは神です。自分が強くて変わるのは信仰ではなく信念です。イエスの指示に従ってガリラヤに行った弟子たちのようにイエスを慕い求める心があれば、疑いは信じることへ変えられるのであります。
 17節はイエスの「近寄って」という行動ではじまります。復活したイエスは弟子から遠ざかるのではなく、むしろ彼らに近づきます。更にイエスは疑う者にも近づきます。イエスは「天と地」というように空間的な広がりのなかでその一切の権能が与えられています。だからすべての民を弟子にしなさい。と命じました。この権能とはなんでしょうか。権威ある教え(7:29)、罪を赦す権威(9:6)、人を癒す権威(9:8)など。イエスは父なる神から全権を託された支配者であります。その支配は全世界の異邦人のすべての民に及ぶのです。これは、イエスに与えられた権能が終末には、すべてのものを支配することです。「だからすべての民をわたしの弟子にしなさい。」とイエスが命令を出されました。他の福音書のようにマタイではイエスは「福音を宣べ伝えなさい」ではなく、「弟子にしなさい」と語ります。マタイにとって福音にあずかることは、イエスの弟子になることであります。弟子にするとは、まずはイエスとの交わりに招き入れることであります。
 諸国民を「弟子にする」ために弟子は出かけて行くのです。弟子にすることは、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けることです。あなた方に教えておいたイエスの一切を「教える」のは、彼らを弟子に仕上げるためであります。さらに「弟子にする」ということは、イエスとの人格的な交わりをいっそう緊密にすることであり、その関係を深めることであります。
 次にイエスは「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けなさいと教えます。マタイ福音書の中に三位一体についての神学が明確に示すことができませんが、ここに「父」「子」「聖霊」の三位の緊密な結びつきについての信仰が表されているのではないでしょうか。洗礼は人を救い主イエスに結びつけるのです。イエスの行なってきた業はすべて父の愛より出でて、聖霊が発出することによって三者の一体が完成するのです。弟子の授ける洗礼は、三位一体の神の交わりに入るためであります。「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を執行する際に信仰共同体が使用していた定式句と見られています。
 また、「すべて守るように教えなさい」という命令は、単に知識を教えるのではなく、教えた結果、生活の場でイエスの勧めを実践するようになることが重要であります。これはマタイ5章からの山上の説教で明らかに述べられています。
 この場面では復活したイエスが地上の全生涯において語った言葉を確認しながら、慎重に実践していくように弟子たちを励ましています。
 教えることの目的は、イエスの弟子を作るためでありますが、教師はイエスのみであることを忘れてはいけません。(23:10「あなたがたの教師はキリスト一人である」)。 復活したイエスが世の終わりまで、いつも共にいることが約束されていますが、この約束が今からずっと続くことを表しています。この「わたしは共にいる」という約束は、福音書冒頭の幼子イエスの物語で予告された「インマヌエル=神はわたしたちと共におられる」の実現であります。復活者イエスが「共にいる」ことは、神が恒常的に「共にいる」ことが実現しているという信仰によって受け入れられたことを宣言しています。イエスの遺言というべき仕事の引継ぎの中身は、全世界に出て行って「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を授け、弟子にすることであり、教えを実践するものに変えられることです。
 復活者イエスは助け手として、また慰める者として、さらに励ます者として、「あなたがたと共にいる」。と約束してくださっています。イエスによって、わたしたちは、新たな神の民とされるのです。現実的な力として、弱いわたしたちに働いてくださいます。世の中の状況がどのように変わろうとも、助け導いてくださいます。これは世の終わりまで続くのです。今、ここでの困難な時代にも復活者イエスと「共に」歩んで行きましょう。聖餐式をはじめとする三位一体の主日の教会の祈りの基本的な姿勢が「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」ここにあります。