説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年5月24日(復活節第7主日) 

大祭司の祈り    

ヨハネによる福音書17章1-11節

 きょうの福音を文脈から見ていきますと、「イエスはこれらのことを話してから」のこれらのことは、13章30節にイスカリオテのユダがイエスから「パン切れを受け取る」と、出て行った直後、この31節から世を去るイエスが弟子に残した「告別説教」が始まります。イエスは「今や、人の子は栄光を受けたので、神も人の子によって栄光をお受けになった」と語ります。そして自分が弟子たちから離れて行くことを告げます。13:34--35節では、「イエスは弟子たちに新しい掟を与えました」そして「互いに愛し合いなさい」と命じますが、14章1節から「心を騒がしてはならない。神を信じなさい、またわたしを信じなさい」と「告別説教」が展開されていきます。「告別説教」は、16章まで続きます。
 「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いでから言われた」から始まり、イエスが後に残す弟子のために祈りをささげることになります。イエスの祈りについてご一緒に見ていきましょう。イエスは、目を天に向け、父よ、
 「時が来ました」この「時」というのは、イエスが十字架の死によって父のもとに帰る時がきたことです。その時、父なる神は子なる神に栄光を与え、子なる神は父なる神に栄光を与えると、相互に与えてくださいと祈ります。
 父なる神は子なる神であるイエスに「すべての朽ちるものである人間に対する権能」を与えられました。その権能というのは、政治的な支配ではなく、終末において「父が子に与えたすべての人に、永遠の命を与える」ためのものであります。そして、「永遠の命」とは、「唯一の真の神であるあなたを、そしてあなたが遣わしたイエス・キリストを人々が知ること」である、と述べます。 信じることは、ヨハネ3章16節の「神は独り子を賜ったほどに、世を愛された、それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命をえるためである」と宣言できるでしょう。更に、「知る」とは、どういうことでしょうか。ヨハネ福音書の「知る」は、単なる知識(グノーシス)ではなく、神とイエスとの人格的交わりを意味します。神を「知る」とは、神についての知識ではなく、神を信じ、その信仰にふさわしく生きることを表します。ヨハネの手紙一の2章4節では、「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」と述べられています。イエスが業を成し遂げて、父の栄光を現わしたことが、祈られました。この業とは、イエスの行なったしるしである奇跡を思い浮かべますが、ここでは最も大いなる業とは、神の栄光を指し示す「しるし」としての奇跡であり、十字架という業を指していると思われます。ヨハネが記す、十字架上のイエスが死の間際に「成し遂げられた」(19:28)と言って、息を引き取った(19:30)こと。これが神の栄光を現わされたことです。
 福音書を記されている紀元90年代の時点から見ますと、それはすでに実現した出来事であります。父はイエスの生涯を通してイエスの栄光を現し、イエスは父への従順によって父の栄光を現しました。父と子が互いに結びつく「栄光」の頂点が十字架の死にあります。父のもとに帰るイエスが「あなた自身のもとで(あなたの御前で)」栄光を与えてくださいと願っています。父よ、栄光を現わしてください。と祈ります。「世界が創られる前に、持っていたあの栄光を」とは、ヨハネ1章1節の「初めに言葉があった。言葉が神ともにあった」この言葉によって世界は造られたのです。イエスは世界が創られる前から存在し、神とともに栄光のうちにあったのです。その栄光が再び与えられるのです。
 6節から、イエスは、地上を去っていくにあたって、世に残された者が信仰共同体を守りぬいていくために祈られます。世(ユダヤ人たち)から選び出され、神からイエスに与えられた弟子の信仰共同体は、み言葉を守りぬきました。ヨハネの共同体に敵対する世は、神とイエスを分離し、異端にしようする策動にもめげずに、それを跳ね返しイエスと神は一体であることを確信することになります。イエスに与えられたものは、みな神からのものであることを知るようになりました。そして、イエスのみ言葉とみ業に触れた弟子は、神がイエスを世にお遣わしになったことを確信しました。9節から世のためではなく、弟子たちのための執り成しの祈りが始まります。弟子たちの信仰共同体は、父のものであると同時にみ子なる神であるイエスと一体であり、神のものだからです。イエスはこうして「わたしは彼らによって栄光を受けました」、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」というように、イエスの弟子もかつては世に属していましたが、「今は」イエスが誰であるかを知って、世に属さない者となりました。そこで、イエスは地上を去っていくにあたって残されるものが一つになるように、と願います。彼ら弟子たちは「世」に残されて、イエスの使命を受け継ぐことになりました。イエスは栄光を受けるために天に移っていくのに比べて、弟子たちの信仰共同体はこの地上の世に残されて行きます。だから弟子たちのために祈りがささげられるのです。復活節での主イエスのとの出会いを振り返ってみますと、イエスは、あなたがたに平和があるように、―わたしの主、わたしの神よ、と言うトマスの応答、イエスがパンを裂くことによって、目が開かれました。羊の門であるイエスは、門をくぐることによって、永遠の命に導かれます。心を騒がせるな、神を信じなさい、願うことが何でもかなえてあげよう。と言う約束。わたしはぶどうの木、わたしに繋がっていなさい。きょうは、ヨハネの信仰共同体が一つとなり、愛し合うことです。唯一の真の神を信じ、神が遣わしたイエス・キリストを救い主であると信じること、この神の愛に包まれてイエスに繋がり、イエスを頭とする共同体の体としてつながり、お互いに助け合い一つになることが本日のメッセージです。この恵みを受けることができるように祈っていきましょう。