説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年5月17日(復活節第6主日) 

つながり実を結ぶ   

ヨハネによる福音書15章1-8節

  

  先主日の告別の説教に引き続いて、第二の告別の説教が行われますが、内容的には第一の告別の説教に重複しています。

 きょうの福音では、いきなり「わたしはぶどうの木である」と、「わたしは〜である」と言い方が使われています。突然、ぶどうの木が出てきました。

 ぶどうの木は旧約聖書において、ぶどうの木をイスラエルの比喩として、イザヤ書27章2節で「主のぶどう畑の回復」として、ホセア書10章1節の「イスラエルに臨む罰」などに表わされています。一度も個人に適用されていないようです。福音書では、イエスは自分のことを「わたしは真のぶどうの木」と呼びますが、この前提になっているのが、エゼキエル書第15章で「役に立たないぶどうの木」という小見出しをつけて記されています。

 ここではぶどうの木は最初から実をならせるものとして期待されていません。ぶどうの木がモノを造る素材としての木材として役に立つか役に立たないかの扱いになっています。「エゼキエルによれば、イスラエルの現状は実を付けない、焼かれる以外には何の役にも立たないものとされています。イスラエルは神から離れているので、実を結ぶことのできない偽りのぶどうの木となりました。」これは紀元前587年の第二次捕囚の前に書かれたものとされています。

 きょうの福音は、そのイスラエルに、神が「イエスを遣わされて実を結ぶ「真のぶどうの木」であるイエスに戻るように招かれています。このころのヨハネ福音書の書かれた時代背景は、ユダヤ教のシナゴーグでの礼拝において、激しい対立関係になりました。この対立の中で脱落者とまたユダヤ教のシナゴーグの礼拝のうちに潜伏せざるを得ないキリスト教徒が出始めていました。このような事態に直面して、ヨハネ共同体はどうしても、一人ひとりの信仰を問わないわけにもいかなかった切迫した状況があったようです。

 2節では、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」取り除かれる、カタイローという単語はカタロスという形容詞から派生した動詞です。清める。刈り込まれる。手入れするなどの意味があります。実を結ばない枝は、信仰の不完全な状態にあることでしょう。

 どうやら信仰が長いから良いというものでもないようですが、イエスにつながり一体になるという以外よくわかりません。ただ新芽であってもしっかかりとぶどうの木であるイエスにつながっていることを呼びかけています。イエスのしるしによって多くの人が信仰を持ちましたが、当時のようにユダヤ人たちから迫害され、苦難が襲いかかると脱落してしまいます。それは本当の意味でキリストに結び付いていなかったからです。

 それに対して、イエスにつながっている人々、すなわちイエスを救い主と告白して、神を信じる者は、「豊かに実を結ぶように手入れをなさる」のです。信仰は、苦難、喜び、をくぐっていくなかで育まれて行きます。「そればかりではなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望生むことを知っているからです」(ロマ5:3-4)

 イエスにとどまる(つながる)ことで信仰の実を結ぶことになるのです。それも豊かに実を結ぶと約束されるのです。福音を聞いて、イエスにとどまっている人たちは、すでに清くなっている(3)。と宣言されています。「わたしにつながっていなさい、わたしもあなた方につながっている。という約束があります。わたしたちは聖堂で聖餐に与ることが大切ですが、地理的に離れた状態にならざるを得なくなってもイエスにつながり生きる道を選びます。小さな集まりの祈りであってもイエスと一つになるのです。そこにイエスの十字架の愛が結びつけてくださるのです。

 5節で、再び「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と宣言されます。ぶどうの木は幹と枝の違いは、分かりにくいのですが、ぶどうの枝は刈り込まれて、枝に新しい枝が出てきます。その新しい枝に実をつけます。

 だからわたしたちは、イエスを離れては実がつきません。弟子たちの信仰は、人間の個別な資質によるのではなく、また個人の能力によるのでもなく、ただイエスによって力が与えられ、イエスの業を受け継いで信仰の実をつけるのです。イエスにとどまってこそそれが叶うのです。

 「木であるイエスに繋がっていない人が、枝のように投げ捨てられ枯れる。」(6節)すなわち裁かれることが告げられます。それはイエスを信じるかどうか困難な状況下でもイエスにとどまり続けるかどうかによって裁きが下され、火に投げ入れられて焼かれてしまうのです。7節では、14章13節に重なってきますが、イエスに繋がって、イエスの言葉を守る者の祈りが聞き入れられるのです。望む者は何でも願いなさい。そうすれば叶えられると約束してくださいます。

 そしてイエスの弟子である信仰共同体において、「父は栄光をお受けになる」のです。そこには最も真実な形で礼拝がなされていることです。それが父なる神が栄光をお受けになることであり、共同体にあっては、「神の栄光を現わすことができるのです。」

 この栄光は告別の説教の初めに新しい戒めとして、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」(13:34-35)それが信仰共同体に与えられた神の栄光であります。危機のなかにあっても父と子、弟子である信徒が一つになりイエスを頭とする共同体に愛の実践が行われることが求められています。